本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT8 特務三課の情けない戒厳令

「ひどいですよ、藍さん!」
 軍務省情報部特務三課の課長である社銀生は、部下であり情人でもある黒髪黒眼の男に向かって、涙目ですがりついた。
「もう俺のこと、愛してないんですかっ」
 愛だの恋だのという問題か。藍は銀生を冷ややかに見遣った。
「仕事に私情は禁物です」
「そんな〜。碧っ、おまえからもなんとか言ってよー」
 自分だけでは形勢不利と見たのか、銀生は金髪の部下にお鉢を回した。
「そうだよ、藍にーちゃん。いくらなんでも、やりすぎだよ」
 ぷうっと頬をふくらませて、碧が言う。
 本当に人がいい。こんな自分勝手な上司の肩を持つなんて。まあ、今回のことは碧にも多少のデメリットはあるだろうが。
 その日、桐野藍はかねてからの懸案事項であった計画を実行に移した。始業時間より一時間も早くに出勤し、オフィスの中を点検し、目標物を確保すると、それらを機密書類の入っている特殊ケースに収納し、施錠したのである。
 といっても、単に鍵をかけただけでは意味がない。ケースの鍵は、課長である銀生も所持している。藍はさらに、そのケースに昨日こっそり買っておいた新しい鍵を設置した。
 これでよし。すべての作業を終えたのは、始業五分前のことであった。そして、一時間後。
 いわゆる「重役出勤」で銀生が出勤してきて、この騒ぎとなったのである。
「ほら、碧もこう言ってることですし……」
「駄目です」
「仕事中には食べませんから、出してくださいよ。『一文字屋』、今日は定休日なんですよ?」
「それがどうかしましたか」
「どうかって……だから、きのう余分に買っておいたのに〜」
 いい年をした大人が、情けない。たかがせんべいごときで。
 もっとも、その「せんべいごとき」のためにここまでやる自分も、情けないといえば情けない。
 藍が機密書類のケースに入れたのは、「一文字屋」のせんべいだった。ついでに、水屋に入っていたインスタントラーメンも。
 勤務中に飲食するのはやめてくれと口を酸っぱくして言っても、いっこうに事態は改善されない。ラーメンの匂いはオフィスに籠もるし、せんべいをかじる音は騒音以外のなにものでもないし、食べこぼしで書類は汚れるし、書き直しに時間がかかるものなどは提出期限に間に合わないこともあって、藍はとうとう、本日の処置に踏み切ったのだ。
 莫の国での命懸けの任務をやっと終えて帰ってきたというのに、こんなばかばかしいことで怒りたくはない。だが。
 あまりにもばかばかしすぎて、かえって怒りが増幅されてしまった。
「仕事が終了したら、お返しします」
 注意深く言葉を選んで、藍は言った。いつぞやのように、言葉尻を取られてはかなわない。
「それまでは我慢してください」
「だってー」
「だってもあさってもありません!」
 ぴしりと断じる。銀生は肩を落として、自分のデスクに戻った。碧もこそこそと引き上げる。昏は何事もなかったかのように、黙々と未処理の書類に向かっていた。碧の机には一枚もないところを見ると、昏が全部引き受けたのだろう。
 デスクワークの苦手な碧に代わって、昏が報告書を書いたりすることはふだんからよくあるが、ほかの部署からの書類まで肩代わりしているということは……。
「昏」
 声に棘が混じるのは仕方ない。
「はい」
「これを冠さまに届けてきてくれ」
 夏氏領に関するファイルを差し出す。
「…………承知」
 返事をするまでの微妙に長い間が、心情を物語っていた。
 冠への上申書は、いろいろと煩瑣な手続きがある。これで少なくとも二時間はここに帰ってこられまい。
 むすっとした顔でファイルを受け取り、昏は部屋を出ていった。
「もー、藍さんったら。今日は思いっきり機嫌が悪いんですねえ」
 なにやらメモ用紙に書き付けながら、銀生がぼやいた。
「もしかして、欲求不満ですか?」
 ばきっ。
 ボールペンが折れた。馬鹿野郎。碧の前でなんてことを言うんだ。
「やっぱり、あれじゃ足りなかったのかなー。今度はもっと……」
 限界だ。
「……………社課長」
 一音一音、念を込めて発音する。
「はい?」
 三十路間近の男が首をかしげても、かわいくはない。
「今後、勤務中は職務に関すること以外の発言は、ご遠慮願います」
「……え、あ……つまり……」
「口チャックですっ!」
 だから。おれは保育園の職員じゃないんだよっ!!!!!
 自分の発言に自分で突っ込みを入れなければいられないほど、桐野藍は追いつめられていた。


 莫の国での任務は、じつに難しかった。まず、夏氏の王族が連行された形跡を探るのがひと苦労だった。
 夏氏の王は一般人から見れば神様である。その現人神を国外に連れ出したりすれば、さぞ目立つと思っていたのに。
 莫の国は夏氏領を属国とするつもりだろう。ならば夏氏の民に、王の口から莫の国に従えと命じさせればいい。王の言葉を無条件に信じる者は多いのだから。
 しかし。
 なぜか、王の消息はわからなかった。亡命を偽装し、砦に入ったところで自爆させるなどという派手なことをやったくせに、莫の国の本国では夏氏領のことなど知らぬといった雰囲気なのだ。
 上層部でもめ事でも起こったのか。そう思って長老クラスの何人かを調べたところ、そのうちのひとりが、私邸に異様に厳重な結界を張っていることに気づいた。
 国の中枢を担う者が自宅に結界を張るのはめずらしいことではない。人によって結界の質が違うのは理解できるが、件の長老の家に張られたそれは、まるで前線の野営地を思わせた。いつ、どこから攻撃されるかわからない。そんな緊迫した状況下での結界である。
 波長の違う結界を、少なくとも三つ。もしかしたら、ごく範囲の狭いものがもうひとつぐらいあるかもしれない。外からでは判然としないが。
 その屋敷の近くに隠れて、見張ること二昼夜。三日目の夜、わずかな隙をついて内部に潜入した。そして。
 幾重にも張られた結界をくぐりぬけ、やっと辿り着いた小部屋で、藍は目指す相手に遭遇したのだ。
 頬と首に五色の刺青。家名を図案化したものだというそれは、夏氏の王家に伝わる独特のものだった。


 ガチャリ。
 特務三課のオフィスのドアが、拍子抜けするほどすんなりと開いた。
 碧が壊したそのドアは、藍が帰還した日の夕刻、退院したばかりの昏によって修理された。上部を少しばかり削り、蝶番を新しくしたおかげで、以前のような音もしなくなった。これも怪我の功名というのだろうか。
「よおーっす」
 入ってきたのは、鬼塚だった。
「ありゃりゃ、なんだ? 銀生。しけたツラして。まーた主任さんに叱られたのかい」
「大当たりー。藍さんったら、ひどいんだよ〜」
「社課長。私語は慎んでください」
 ここぞとばかりに愚痴ろうとする銀生を制し、藍は特務二課の課長に向き直った。
「ご用件は」
「へいへい。例の、お客さんのことだがな」
 遠回しに、鬼塚は言った。藍が夏氏の王族を連れて帰ってきたことは、極秘中の極秘だったから。
「おやっさんを袖にしたらしいぜ」
 要するに、冠の申し入れを拒否したということか。
 一難去って、また一難。特務三課の「仕事」は、まだまだ終わりそうになかった。