本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT7 藍、帰還する

 特務三課の主任にしてデスクワークの達人、さらには三課長社銀生の情人でもある桐野藍が密命を受けて莫の国に潜入して、今日で早や八日。
「銀生さーん、ラーメン、まだ?」
 銀生は朝っぱらから、腹をすかせた部下のためにインスタントラーメンを作っていた。
「まーだだよ。これはゆで時間が四分だから」
「なんで、そんなもん買ってくんだよー。『麺一番・こってり味噌バター』だったら三分なのに」
 どうやら、それが碧の最近のお気に入りらしい。
「いやあ、生麺タイプの新製品だっていうから、おいしいかと思って」
「ちぇっ。あしたは、いつものにしてくれよ」
 割箸片手に、ぶつぶつと文句を言う。
 まったく、いつまでたってもガキだねえ。銀生は心の中でため息をついた。これだから、いまだにあの人もこいつを放っておけないのだろう。すでに片羽を見つけているというのに。
 碧と昏。
 ふたりがなにゆえに引かれ合ったのかは知らない。けれど、彼らはずっと以前から互いの中に互いの存在を認識していた。
 ふと、二年前のことを思い出す。碧が学び舎を卒業して、昏の「水鏡」となったときのことを。
 実戦で使えないような者はいらない。駄目になるなら早い方がいい。そう思ってあいつらを見ていた。あの人と出会ったのも、同じころだった。
『あなたは、碧を潰すつもりですか』
 それまでほとんど一面識もなかった俺に、あの人はそう言った。
『だったら、どうします』
 売り言葉に買い言葉。冗談半分に答えた。あのときの、藍の顔。
 おそらく一生、忘れないだろう。凍土のごとき冷たい視線と、薄く鋭利な殺気。
 あれに、惚れたんだよなー。
 しみじみと、思い出す。ほーんと、いい顔だった。もちろん、あの最中の顔もいいけど……。
「ちょっと、銀生さん! もう四分たったよー」
 箸の先で腕をつつかれ、銀生は我に返った。そうだった。いまは、思い出よりもラーメンだ。
「あー、悪い悪い。ほら、おまえのぶん」
「いっただきまーすっ」
 ばちっと手を合わせて、猛然と食べ始める。
「うわーっ、これ、うまいなー」
「だろー。四分、待つ価値ありってことで」
「うんうん。今度、昏に作ってやろうかな。今日は『麺一番・あっさり鶏ガラしょうゆ』にしろって言われてるけど」
 昏は今日、退院の予定だった。
「退院祝いがインスタントラーメンとはねえ。ま、おまえたちらしいといえば、らしいけど」
 それにしても、昏もよく辛抱したものだ。藍が外の任務についたと知ったら、無理にでも退院してくるかと思っていたのだが。
 もっとも、あの藍のことだ。自分が不在のあいだに勝手をされたとなれば、後々どんな報復をするかわからない。碧のためなら、職権濫用など屁でもないと思っているのだ。まったく、とことん「親バカ」である。
「ごっそーさんっ」
 碧の声。いつもながら、食べるのが速い。
「んじゃ、おれ、昏を迎えにいってくるから」
「退院、昼からじゃないの?」
「午前中の回診が終わったら、すぐに帰るって言ってたんだよ」
 なるほど。よっぽど早く家に帰りたいらしい。まあ、そりゃそうか。医療棟に担ぎ込まれて、十日。その前は夏氏領での潜入任務だったから、少なくとも半月は「ごぶさた」しているわけだ。
 そりゃ、つらいよな。銀生は昏に同情した。毎日のように顔を合わせているのに思いを遂げることができないのは、ある意味、拷問である。
 退院祝いのメインは、やっぱりアレだろうねえ。とすれば、あした、碧は「病欠」だな。
 頭の中で勝手に勤務表を作成していたとき。
 ぞくり。
 異様な「気」が特務三課のオフィスに流れた。
「え……」
 覚えのある「気」。まさか……。
 過日、碧がぶち抜いた扉の方を見遣る。そこにいたのは。
「あーーーっ、藍にーちゃん!」
 碧の素っ頓狂な声が響いた。それはたしかに藍だった。見たところ、目立った外傷はない。
「おっかえりー。うわーっ、早かったじゃん。任務、うまくいったの?」
「ああ、大丈夫だ」
 一瞬だけ、「気」がゆるんだ。が。
「社課長。ただいま戻りました」
 ずかずかと中へ進む。
「ご無事で、なによりで……」
 定型のあいさつをしようとした銀生に、藍はびしっと人差指を突き出した。
「なんですか、このありさまはっ」
「は?」
「あなたには、管理職としての自覚が足りません!」
 久しぶりに聞く、この声。
 いいよなあ……と思ったことは、口がさけても言ってはいけない。とりあえず、低姿勢に出てみる。
「はあ、その、どのあたりが……」
「どのあたりもこのあたりも、全部ですっ。未処理の書類はデスクに山積みになっているし、ゴミ箱は満タンでふくれてるし、廊下や床は綿埃がいっぱいだし、流し台もコンロも窓も汚れてるし……だいたい、この扉はなんですかっ」
「ああ、それは、うまく開かなくて碧が壊してしまって……」
「そんなことは訊いてません!」
 では、なにを怒っているんだろう。ほかのことはともかく、ドアをぶっ壊したのは碧なのだが。
 藍は壊れたドアの上をさっと人差指でなぞった。
「これ、なんだかおわかりになります?」
 うっすらと、白い埃。
「こんなに埃がたまるということは、この扉はきのうや今日、壊れたわけじゃありませんよね」
 たしかに、そうだ。銀生は頬をひきつらせながら、こくこくと頷いた。
「だったら、どうしていままで修理をしないんです。ここは、仮にも情報部特務三課の事務所ですよ。取り壊し寸前の建物だったとはいえ、いまはわれわれの仕事場です。仕事場の環境整備は管理職の義務でしょう」
「お説、ごもっともです」
 恐い。でも、うれしい。アブナイ思考が銀生の脳裡をよぎる。
「では、社課長」
「はい」
「それから……碧」
「え、なに」
 すでに出かける用意をしていた碧が、戸口で振り向く。
「いまから、八日分の清掃をしてもらいます!」
 ばんっ、と掃除用具入れを開けて宣言する。
「「えええええーーーーーっっ」」
 叫び声が、見事にハモった。
「藍さん、そんな、年末の大掃除じゃあるまいし……」
「おれ、いまから昏を迎えにいこうと……」
 それぞれに、なんとかこの状況から逃れようと必死である。
「……昏は、今日、退院なのか?」
 きらり。漆黒の瞳が光る。
 碧〜。やぶ蛇だよ。
 銀生の心の声が届くはずもなく。
「うんっ。昼までには退院できそうなんだ。だから……」
「なら、昏が戻ってくるまでに、ちゃんとしてなきゃな」
 にっこりと笑って、藍は言った。
 反則ワザですよ、それ。銀生は天井を仰いだ。そりゃ、あんたがいないあいだ、掃除もデスクワークもサボってたのは悪かったけど。
 じつは、それどころではなかったのだ。冠が夏氏の王族を確保するために動いたと知った周辺諸国が、それぞれに新たな策を巡らしてきていたから。
 銀生はこの数日、移動の術を使って各地を飛び回っていた。昼間は動けないので、もっぱら夜に。
 そのことも話さねばならないが、いまはとりあえず、掃除だな。
 銀生はおとなしく、モップを手に取った。