本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT6 桐野碧の涙ぐましい努力

 バリボリバリボリバリボリ………
 軍務省情報部特務三課のオフィスに、今日も不似合いな咀嚼音と香ばしい醤油の匂いが流れる。
「銀生さん! いい加減にしてよっ」
 書きかけの書類をクシャクシャと丸めて、碧が叫んだ。
「なーによ。おまえまであの人みたいなこと言わなくても……」
 銀生は「一文字屋」の堅焼きせんべいをくわえたまま、言った。
「気が散るんだよー。今日中にこれ、書かなきゃいけないのに」
「煙草はガマンしてるんだから、いいじゃないの。おまえも食べる? 今日は甘味噌せんべいも買ってきたんだよー」
 がさごそと、袋を探る。
「いらねえ」
 むすっとして、吐き捨てる。
「あーら、どうしてよ」
「用紙汚したら、せっかくうまく書けても書き直ししなきゃいけねーもん」
 常日頃、藍から注意されているのだろう。こういうところは素直だねえ。
「あーっ、もう、うまくいかねえっ」
 かなり煮詰まってきたようだ。きのうから今日にかけて、書き潰した用紙はゴミ箱二杯分。藍が見たら卒倒するに違いない。次のゴミの日には忘れないように処分しなくては。
 もっとも、藍のことだ。報告書の用紙が大量に減っていることに気づいて、またぞろ碧に説教を始めるかもしれないが。
 銀生はデスクの上に「一文字屋」のせんべいを置いて、すばやく印を切った。右手をかざして、莫の国にいる藍を追う。
 どうやら、潜入には成功したらしい。都に向かう街道を行く後ろ姿が見える。通行証を偽造した甲斐あってか、いまのところ周囲に不審な影は見えない。
 さすがだねえ。見事に別人の「気」を作っている。あれなら無事に都に入れるだろう。
 ふたたび、せんべいをかじる。碧がまた露骨にいやな顔をした。
「銀生さん……。そんなにせんべいが食いたかったら、外に行ったら?」
「はいはい。ほーんと、藍さんによく似てきちゃって」
 うれしいような哀しいような、いわく言いがたい気分をいだいて立ち上がる。と、そのとき。
「あの………」
 戸口から、声がした。
「お邪魔しても、よろしいでしょうか」
 控え目な物言い。銀生はひらひらと手を振った。
「いいよー。足元に気をつけてね」
 オフィスのドアは、きのう碧がぶち抜いたままになっている。
「はい。失礼します」
 そろそろと入ってきたのは、秘書課に勤務している春日ほのかだった。彼女は一課所属の春日是清の双子の妹である。
「で、なんか用?」
 バリバリとせんべいをかじりながら、銀生。
「きのう、一葉さんが申し上げたと思うんですけど……」
 ちらりと碧の方を見つつ、言う。
「ああ、報告書ねー。いま作成中だよ。なあ、碧?」
「やってるよっ。だれかさんがジャマしなけりゃ、とっくにできてたのに……」
 そりゃないでしょ、おまえ。
 ……と、言いたいところだが、半分は当たっているので黙っておく。ほのかは心配そうに、碧の側に進んだ。
「碧くん、あの……」
「なにー?」
 報告書をにらみつけたまま、訊く。ほのかはそっと、ピンクのハンカチに包んだものをデスクに置いた。
「いろいろ、たいへんなんですってね。これ、よかったら召し上がって」
「え……」
 碧はびっくりしたように、包みとほのかを見比べた。
 ほのかも、碧とは学び舎時代の同期生である。金髪碧眼という外見から異端視されていた碧だったが、ほのかはそういった世間の風潮とは離れた場所にいる性格だったらしい。いまだに、なにかにつけては三課に出入りしている。
「へーえ、差し入れか。碧も隅に置けないねえ」
 銀生が横から顔を出した。
「どれどれ。おーっ、これはもしかして、手作りかな?」
 もしかしなくても、手作りだろう。ハート型のクッキーが二種類。ナッツ入りとチョコチップ入りである。
「こりゃうまそうだ。ひとつ、もらうよー」
「あーっ、銀生さん!」
 碧の叫びを無視して、ひとつならず二つも三つもたいらげる。ほのかは口元に手をやって、涙目で銀生を見上げた。
「ひどいです、社課長」
 肩が震えている。ありゃ、やりすぎたかな。銀生はぽりぽりと頭をかいた。あとで、怜に嫌みを言われるかも。
「ウチの子、泣かしたんだってねえ。銀生?」
 公衆の面前でネチネチといじめられるのは遠慮したい。
「あー、ごめんごめん。悪かったよー。お詫びのしるしに、はい、これ」
 銀生はほのかの眼前に、「一文字屋」のせんべいを二枚、差し出した。
「醤油と甘味噌。どっちがいい?」
 ほのかはぐすん、と涙を拭いて、
「……どっちも好きです」
 やはり、すべからく女ってのは手強い。銀生はそう再認識して、せんべいを二枚とも手渡した。
「甘味噌のことは、一葉にはナイショにな」
「はい」
 こくりと頷く。碧は首を四十五度傾けている。女の奥深さを理解するには、まだまだ修業が足りないようだ。もっとも、理解しなくてもいいのかもしれないが。
 医療棟で点滴の管に繋がれている部下のことを思う。あいつも因果だねえ。でも、仕方ない。いちばんほしいものを、手に入れてしまったのだから。
「まあ、今日中にはムリかもしれないけど、がんばってたって言っといて」
 銀生が碧のフォローをすると、
「はい。あの……」
 ほのかはおずおずと、銀生を見た。
「んー、なによ」
「わたくし、もう少しここにいてもいいですか」
「べつに、いいけど」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて、ほのかは碧の手元を覗き込んだ。
「碧くん」
「なっ……なに?」
 いくぶん、引きぎみで答える。ほのかは報告書を指差し、
「ここ、もっと文を短くした方がいいと思うんですけど」
「えっ、どこどこ?」
 首をのばして、用紙を見る。ほのかはなにやら、こまごまと添削を始めた。碧はうんうんと頷きつつ、教えられた通りに書き直している。
 こりゃ、なんとか今日中にカタが付くかもねえ。
 銀生はとんとんと肩を叩いて、オフィスを出た。
 中庭に面した階段にすわり、ポケットから煙草を取り出す。
『いい加減にしないと、肺ガンになりますよっ。周りにいる者の迷惑も考えてください!』
 愛しい人の声が聞こえる。はいはい。わかってますって。でも、なんだか落ち着かなくてね。
 早く帰ってきてくださいよ。そして、いつものように大きな声で怒鳴ってください。
 あんたの怒鳴り声と、アノ声が聞けないと寂しいんですから。……なーんて言ったら、また思いっきりにらまれるんだろうけど。
 とことん不毛な想像を巡らせつつ、銀生は紫煙をくゆらせていた。