本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜 by近衛 遼 ACT2 桐野主任の憂鬱 バリボリバリボリバリボリ………。 特務三課のオフィスに、不似合いな音が流れている。しばらく途切れたかと思うと、ガサガサという紙袋を探る音のあとに、またぞろバリボリとなにかをかじるような音。 「いい加減にしてください!」 バン、と机を叩いて、桐野藍が立ち上がった。 「いまは勤務中ですよ」 「へ、さっき、食べていいって言ったじゃないですか」 赤ん坊の顔ほどもある大判の醤油せんべいをくわえたまま、銀生が抗議した。 「お茶受けに、一、二枚ならいいと言ったんです。袋を抱えて一気食いなんて、卑しい真似はやめてください」 「だって、おいしいんですもの〜。あ、藍さんもほしかったんですか? それならそうと言ってくれたらいいのに。はい、どうぞ。『一文字屋』の堅焼きせんべい。ここのを食べ始めたら、余所の店のは食べられませんねえ」 「そういう問題ではありません」 目の前に差し出された醤油せんべいを無視して、藍は銀生の手元にあった報告書を取り上げた。 「ほら、ここ。せんべいのクズがはさまってる。こんなものを冠さまにお見せするわけにはいきません。書き直してください」 「えーっ。パッパッて払えばいいでしょ」 「醤油の染みがついてます。過失による公文書汚損は罰金ですよ」 「そんな固いこと言わなくても」 「事実です。ちなみに、部下の労働意欲を低下させる行為も罰金の対象になると申し上げたはずですが」 「部下って、碧も昏も出張中で……」 ふたりはいま、密命を受けて夏氏領に潜入している。 「おれも、あなたの部下ですっ!」 報告書をばしっとデスクに叩き付け、藍は叫んだ。 「のべつまくなし、バリバリバリバリやられちゃ落ち着きません。今後は、休憩時間以外にここで飲み食いするのはやめてください」 「ひどいですよー。こないだは煙草で、今度はせんべいもダメなんですか?」 「せんべいだろうがラーメンだろうが饅頭だろうが、業務に支障をきたすものは一切禁止です!」 ほとんど「おれがルールブックだ」の世界(この比喩で通じるだろうか?)である。 「鬼塚たちと将棋するのは見逃してくれたのに〜」 「あれは、他の部署との親善と情報交換に一役買っているから、特別に目をつむっているんです。あんなことでもなければ、ウチの課は永遠に忘れ去られるでしょうからねっ」 「ひどいですよー。俺だって一生懸命、働いてますっ」 「『一文字屋』のせんべい片手に言われても、真実味はありませんね」 ぷいっと横を向く。銀生はため息まじりに、せんべいを机の上に置いた。おもむろに、それを拳で割る。 バキ。鈍い音。 藍はゆっくりと振り向いた。こういう場合、かなりの確率で銀生は「入れ替わって」いる。いや、べつに、銀生が多重人格だというわけではない。むしろ多重人格であった方がまだ可愛げがある。 銀生は拳についたせんべいの欠片をぺろりと舐めて、微笑んだ。 「あいつらも、苦労してるみたいだねえ」 「……あいつらって、碧たちのことですか」 藍は声をひそめて、言った。この時点で藍も常とは別人になっている。特務三課の本当の任務に関しては。 「昏はともかく、碧は気配をごまかすのがヘタだからね。莫の細作の中には、和の国が出張ってきてることに気づいたやつもいる」 「どうして、そんなことがわかるんです」 「せんべい占いです」 「はあ?」 一瞬、素に戻る。 「こんなときに冗談は……」 「これを遠見の術の媒体にしたんですよ」 せんべいの上に手をかざす。 「俺の『気』は強すぎるんでねえ。まっとうに術を使うと、敵にも味方にもバレバレで」 味方にばれてなにが悪いのかと思うだろうが、特務三課においては味方をも欺かねばならないことが多々あるのだ。今回はとくにそうで、国境の砦にいる仲間に夏氏領の件を知られては、なにかとまずい。 「ま、これでも昏には気づかれてるだろうけど」 くすくすと笑う。昏の思いっきり不機嫌な顔が目に浮かんだ。彼は自分たちの任務に、上司である銀生や藍が口を出すのを(もちろん、手を出すのも)嫌っていたから。 「莫のやつらの包囲が狭まってきてるから、今夜中にカタを付けないと危ないかもねえ。碧の結界術が安定してれば、夏氏の城ん中はなんとかなるかな」 銀生はすっと手を引っこめた。反対の手でせんべいの欠片をつまんで、口に入れる。 「おいしいし、仕事の役にもたつ。これなら文句ないでしょ」 バリバリと咀嚼しながら、銀生。藍はこめかみを押さえた。 たしかに役には立っている。が、それは百回のうち一回ぐらいのことで。 バリボリバリボリ……。 またしてもオフィスに流れる、不似合いな咀嚼音。 「社課長」 必死に感情を押し殺して語を繋ぐ。 「術の媒体なら、中庭に転がっている石で十分です」 「……あらら、やっぱり、ダメ?」 「こんなことでは、ごまかされませんからね」 「うーん、惜しいなあ。もうちょっとだったのに」 「とにかく、これは没収です」 「あーっ、せっかく、時間指定して焼いてもらったのに〜」 そこまでしたのか。たかがせんべいに。藍の憂鬱は、ますます深まっていく。 「終業時間には、お返しします」 「ほんとですよ? 約束してくださいね」 「男に二言はありません」 「じゃ、はいっ」 「……なんですか」 突き出された小指に、目が点になった。まさか、これって……。 「指切りですよー、もちろん。約束のし・る・しっ」 語尾にハートークが見えたのは、気のせいではあるまい。脱力感にさいなまされながら、藍はふるふると小指を差し出した。 「ゆーびきりげーんまん」 うきうきと、銀生が歌う。早く終わってくれ。夜とはまた違った意味で、そう思う。 「うそつーいたら針せーんぼん、飲ーますっ」 指切った、と言う直前。 ぎぎぎぎぎいいいーーーー。 思いきり建て付けの悪いドアが、歯ぎしりのような音とともに開いた。 「おおっ。なんたることだ!」 くすんだ扉の向こうから現れたのは、特務一課の課長、錦織文麿(にしきおり ふみまろ)だった。 「かつては御影本部にその人ありと詠われた社銀生が、真っ昼間から部下と指を絡めて不埒な行ないに耽っているとは!」 太い眉を寄せて、錦織は愁嘆のため息を漏らした。 思い込みの激しい一課長に対して、誤解だ……と弁明する気力も、もはやない。藍は銀生の手を払い、「一文字屋」の堅焼きせんべいの袋を水屋に仕舞った。 「部下たちが生死を賭けた現場に赴いているというのに、嘆かわしい」 錦織や鬼塚といった特務課のトップは、三課の任務内容を承知している。 「今回の件で、なにか新しい情報でも?」 なんとか思考回路を切り替えて、藍は訊いた。 「うむ。今朝方、春日が暗号で知らせてきたのだが……」 錦織の部下、春日是清(かすが これきよ)はいま、夏氏領近くの西呂の砦にいる。 「夏氏の王族が何名か、亡命してきたようだぞ」 「うわ。サイアク」 銀生が天井を仰いだ。藍も、同意見だった。 |