本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT23 特務三課の秘められた経緯

『そんなに碧が大事?』
 銀生は訊いた。衣服を脱ぎはじめた藍を見ながら。
『どうなのよ』
『言うまでもないでしょう』
 固い声。表情のない白い頬。
 いやだねえ。これならまだ、殺気ばりばりでにらまれる方がマシだよ。
 肩が、胸が、腰が顕になっていく。すべてが取り去られたあと、銀生は灯を消した。毛布をひきずって、座敷の隅にすわる。
『じゃ、おやすみ』
 あっさりと告げた。すでに夜具の上にいた藍が、わずかに身じろぎしたのがわかった。
『なぜ……』
『いまのあんたに、興味はないからね』
 ほかのやつのことで頭がいっぱいになっている人間を抱いても、面白くない。憎しみでも怒りでもいい。こっちをまともに見てないと、ね。
 あるいは逆に、なにも考えずにその行為に溺れてくれるなら、また楽しみようもある。だが。
 相手に感情を向けることもせず、悦楽を求めるでもなく、まったくべつの目的のために体を繋ごうとする。そんなのはご免だ。
 この男は、わかっているようでわかっていない。
 ひと晩、そうやって過ごした。銀生は壁にもたれたまま。藍は褥に座したまま。
 それが、最初の夜だった。


 冠の私邸に、薄く広く遮蔽結界が張られている。その内側には、これまたほとんどわからないほどの封印結界。よほどの術者でも、この二重結界を察知することはできまい。
 腕を上げましたねえ、藍さん。
 朝からずっと、庭木の上で様子を窺っていた銀生はそう思った。こんな微妙な細工、二年前はなかなかできなかったのに。
 藍が「水鏡」の宣旨を受けて銀生のもとにやってきたのは、あの夜から一月ばかりのちのことだった。
「水鏡って……あんたが俺の?」
「はい。それから……」
 冠直筆の書状を差し出し、
「同時に、特務三課の主任の内示もいただきました。三課設立の暁には、よろしくお願いいたします」
 作法通りに一礼する。
 信じられなかった。学び舎を出てからずっと総務部にいた人間が、水鏡だと?
 だいたい、御影にしろ水鏡にしろ、一朝一夕になれるものではない。技や術はもちろんのこと、適性もある。事務畑にいた藍に、どれほどの力があるというのか。
 たしかに、いざというときの精神力はかなりのものだし、ウラを読む目にも長けている。随員として各国を巡った経験から、近隣諸国の情勢にも明るい。それはそれで重要なポイントだったが、問題はほかにある。
 来年発足予定の特務三課は、和の国建国以来の特例中の特例だ。軍務省情報部の、いわば「なんでも屋」としての表の仕事と、御影本部との連携が必要な裏の仕事を両立させなければならない、きわめて難しい部署である。
 藍はきっと、碧が三課に配属されると知って、自分も移ってきたのだろう。あらゆる人脈を駆使して。
 銀生は藍の目の前で辞令を破り捨てた。
「社課長!」
「まだ課長じゃないもんねー」
「しかし……」
「あとで始末書、書くよ」
 紙片をうしろに放る。
「本気なの」
「むろんです」
「じゃ、証明して」
「なにを……」
「その『本気』ってやつを、さ」
 銀生は右腕を横に振った。ばん、と勢いよく窓が飛ぶ。ガラスの破片が中庭に飛び散った。窓枠も何カ所か吹き飛んでいる。藍はそれを目で捕え、
「承知」
 言うなり、粉々に砕けた窓から外に飛び出した。銀生もそれを追う。
 広々とした中庭。古い飾柱が並ぶその場所で、銀生は藍に向かって最初の一撃を繰り出した。
 生半可な覚悟じゃできないよ。この俺の「水鏡」なんて。なんたって、俺は「鬼」の一族だからね。あんたは俺に殺されるかもしれない。それでもいいの?
 銀生は息つく暇もなく、藍を追い詰めていった。
 そして。
 それは、初任務を終えて冠のもとに「対」の宣誓に行っていた昏と碧が、元独身寮であった建物に戻ってくるまで続いた。
「あれえ、藍にーちゃん。なにやってんの、こんなとこで……って、なんか、すごくない?」
 碧が思わず立ち止まったのも、無理はない。
 中庭の半分は黒く焼けこげ、残り半分もえぐり取られたようになっている。飾柱の彫刻は見事に崩れ、回廊の階段も何カ所か亀裂が入っていた。
「あー、おかえり。ご苦労だったね〜」
 服についた土埃をぱたぱたと払いつつ、銀生が言った。
「……何事だ。これは」
 ぼそりと問うたのは、昏だ。
「いやあ、じつは、やーっと俺の『水鏡』が決まったのよ。で、実戦形式で自主練やってたんだけど、調子に乗りすぎちゃってさー」
「水鏡って……もしかして、藍にーちゃん?」
 ただでさえ大きい目を、ひときわ見開いて碧が言った。
「そ。これで俺も、長ーい独身生活にピリオドが打てるよ〜」
 うんうんと頷き、銀生は藍に手を伸ばした。
「いつまで、そんなとこに埋もれてるんです? さっさと上がってきてくださいよ」
 藍は、えぐれた地面の底にいた。手足も髪も顔も土まみれで、ところどころ火傷もしているらしい。
「……」
 銀生の手を無視して、ひょいと飛び上がる。
「あーらら。せっかく手伝ってあげようと思ったのに」
「けっこうです」
「んもう〜、冷たいんだから。一夜をともにした仲じゃありませんか」
 わざと、言ってみた。
「ふっ……ふざけないでくださいっ!」
 なにをムキになっているんだか。銀生は心の中で苦笑した。実際の行為はなかったにしろ、そのつもりで家まで来たんだろうに。
 なにはともあれ、この人はふたたび俺のテリトリーに踏み込んできた。
 見極めてやる。見届けてやる。そんな気迫がひしひしと伝わり、銀生は久しぶりに背中がざわつくのを感じた。
「とにかく、俺たちは着替えてくるから。おまえら、日誌書いたらもう帰っていいよ〜」
 シャワーを浴びて、傷の手当をして、着替えて。
 そのあとは、次の「本気」を見せてもらおう。逃がさないよ。今度は、ね。
 銀生はそう思った。そして、それを実行した。


 ゆらり。
 結界がわずかに揺れる。中で、なにがしかの動きがあったらしい。
『銀生さん』
 藍だ。
『はいはい。どうかした?』
『豊甜どのが異常に気づいたようです。いまから碧が招聘の術を使います』
 日はとっぷりと暮れている。私邸の中には、警護の者が何人かいるのみ。いい時間だ。
『よーし。じゃ、三十秒後に昏をそっちに送り込む。俺は西門で援護する』
『承知』
 遠話が途切れた直後、ふわりと結界が緩んだ。昏が入りやすいように。碧が術を上乗せしやすいように。そして豊甜の油断を誘うために。
 時はいま。
 普通人には聞こえない、鋭い音が闇に響いた。