| 「御影」。 それは和の国において、公にできない工作や暗殺、あるいは他部署が仕損じた仕事を専門に扱う、特殊部隊の総称である。転じて、その任務に当たるエージェント個人の呼称でもあった。 「御影」には、補佐として「水鏡」と呼ばれる術者が付く。彼らは任務上は二人で一人。まれにそのふたつを併せ持つ実力者もいたが、独断専行を避ける意味で、たいていの場合「御影」と「水鏡」は並べて配置されていた。それについては、特例中の特例ともいえる今回の場合も同じで。 和の国建国以来、「御影」がその本部を離れて独自に活動を認められた例はない。その先例をくつがえしてまで、和の国はいわば「御影」の出張所を公の部署として設置した。 正式な名称は軍務省情報部特務三課。 表向きは、雑務専門の閑職である。 本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜 by近衛 遼 ACT1 特務三課の厄介な日常 ぎぎぎぎいいーーーー。 軍務省情報部特務三課の建て付けの悪いドアが、歯ぎしりをするように鳴る。なにしろ、取り壊し予定の独身寮を改装(とは名ばかりで、集会室に事務機器が搬入されただけ)した急場しのぎのオフィスである。予算もほかの部署に比べれば極端に少ない。雨漏りしないのが奇蹟のようなこの建物に、今日も怒号が響いた。 「朝っぱらから、事務所でインスタントラーメンを作るのはやめてください!」 特務三課の主任にしてデスクワークの達人、桐野藍(きりの らん)である。 「匂いが籠もるじゃないですかっ。このところ空調の調子もよくないのに……」 仕方なく、換気扇を回す。 「さっさと食べてくださいね」 藍は上司であり情人でもある長身の男を、換気扇の下に押しやった。 「もうすぐ、始業時間なんですから」 「始業ったって、べつになんにもすることないし……」 もぐもぐと「激辛キムチラーメン」を食べながら、特務三課の課長である社銀生(やしろ ぎんせい)は言った。 「それがいちばん問題なんですっ」 ばんっ!と側卓を叩き、藍は銀生をぎろりとにらんだ。 「あなたがそういう態度でいるから、碧たちも……」 「藍にーちゃん、おっはよー」 やけに元気な声が、事務所に響いた。 「あーっ、銀生さん、今日は何味食ってるの?」 うきうきとした顔で、銀生の部下であり藍の義弟でもある桐野碧(きりの へき)が流し台の前までやってきた。 「へえ、激辛かあ。じゃ、おれも……」 「碧、もしかして朝飯、食ってないのか?」 心配そうに、藍が言う。先刻までとは別人のようだ。 碧は、黒髪黒眼の民族である和の国において、いわば鬼子のように産まれた金髪碧眼の子供で、幼いころから迫害されて育った。篤志家であった藍の両親がそんな碧を養子に迎えたのは、もう十年ばかり前のことで、その両親が他界したあと、藍は碧の保護者を自認している。銀生に言わせれば「おもいっきりブラコン」らしいが、藍はそんなことはまるで気にしていない。 「え、ちゃんと食ったよ。藤おばちゃんにお試しメニューのおにぎりもらったから」 藤おばちゃんというのは、商店街で食堂を営んでいる女性である。 「……なんだ、それは」 眉間にしわを寄せて、藍。 「藤おばちゃんの店で、今度、新しいおにぎりを売り出すんだって。それの試作品ができたから、昏(こん)と一緒にひと通り試食してきたんだ」 「試食って、おまえなあ……」 ちらり、と、碧のうしろにいる黒髪黒目の青年を見据える。 「そんなことをやっていて、遅刻したのか」 またしても、がらりと口調が変わる。 「タイムカードは定時に押している」 昏は抑揚のない声で答えた。 あいかわらず可愛げのないやつだ。碧がどうしてこんな男と「対」になったのか、いまだに理解に苦しむ。碧はいわゆる「水鏡」で、昏は「御影」だった。それだけでも不本意なのに、彼らは私生活においてもパートナーで、いまは郊外の森の中にある一軒家で同居(「同棲」とは死んでも言いたくない)している。 「始業時間とは、仕事場に入る時間ではない。仕事を始める時間だ」 重々しく、藍は言った。昏はむっつりとしたまま、三十度の礼をした。 「以後、気をつけます」 「よろしい。持ち場につけ」 「えーっ、ラーメンは?」 すでに激辛ラーメンの袋を手にしていた碧が訴えた。 「勤務中は、だめだ」 「だって、銀生さんは……」 「もう食べちゃったもんねー」 銀生は手をひらひらさせて、そそくさと自分のデスクに向かった。 「ちぇっ。ズルイよー」 碧がふくれる。 「社課長」 藍は上司を役職名で呼んだ。ぴたりと銀生の足が止まる。 「……なんでしょうか。桐野主任」 銀生も役職名で返す。 「部下の労働意欲を低下させるような行ないは、減俸もしくは罰金の対象となります」 「やだなあ。ラーメンぐらいで大袈裟な……」 「そんなにラーメンが食べたければ、これから毎食ラーメンにしてもいいんですよ!」 ちなみに銀生と藍は、都の北端にある古い屋敷で暮らしている。ふたりが情人関係を結んでから、いつとはなしにそうなった。 「ラーメンの食べすぎで、高血圧になって糖尿病になって脚気にでもなればいいんですっ」 だんだん論旨がずれていく。碧はそーっとその場を離れ、昏の横にちょこんとすわった。 「なにやってんの」 すでに、算盤片手になにやら書類を作っている昏に問う。 「先週の経費の計算だ」 昏が答える。 「あ、おれ、領収書もらうの忘れちゃった」 「……領収書がなければ、自腹だな」 「えーっ。そんなあ」 「いつも言ってるだろう。あきらめろ」 十代のふたりがちまちまと経費の計算をしている傍らで、二十代後半の男たちは思いっきりレベルの低い争いを続けていた。 「糖尿病とか脚気とかリウマチとかは、いちばん厄介な病気なんですよ〜。藍さん、看病してくれるんですか?」 「しませんよ。自業自得ってもんです」 「冷たいなあ。もう、俺のことなんかどうでもいいんですね」 「……………どうでもよくないから、怒ってるんですっ!!!」 どうやら、桐野藍の「怒」センサーがマックスに達したらしい。おもむろに、部屋の隅にあったバケツと雑巾とモップを差し出す。 「流し台とコンロと床。しっかり拭いてくださいね」 さわらぬ神に祟りなし。銀生は神妙にそれを受け取る。 「それが終わったら、窓拭きも」 「きのうもやったじゃないですか」 「じゃ、厠の掃除にしますか?」 「……窓、拭きます」 上官の威厳などかけらもない。銀生はごそごそと流し台を拭き始めた。 軍務省情報部特務三課。 表向きは、ほかの部署の残務処理や雑務を扱うのが主な任務である。しかして、その実体は。 掃除に精を出す課長と報告書と上申書に埋もれている主任と、経費の計算を必死にやっている部下たちと。 そんな四人の厄介な、しかし平穏な日々は長くは続かない。 ぎぎぎぎいいいーーーー。 歯ぎしりのような音とともに、ドアが開く。 「よおっす」 くわえ煙草で事務所に入ってきたのは、特務二課の課長、鬼塚修造だった。ちなみに、二課は国内担当の部署で、一課は外交任務を主とする部署だ。 「あーらら。あいかわらず主任さんに扱き使われてんのかよ、銀生」 「そうなのよー」 モップ片手に、銀生。藍は書きかけの書類を横にやり、 「今日は、どんなご用件で?」 冷ややかに見遣る。 「賭け将棋でしたら、あと一時間ばかりお待ちください。まだ窓拭きが残ってますので」 二課の課長と三課の課長は、飲み友達であると同時に賭け事の仲間でもあった。なにかといっては将棋やら碁やら麻雀やらをしていて、業務に支障をきたすことも多かった。 ウチはともかく、二課はそれほど暇じゃないはずだが。 藍は常々そう思っている。 「んー。こないだの負けを取り返したいのはやまやまなんだけどねえ。それはまた今度ってことで」 ぴらり、と一葉の紙を差し出す。それは和の国の軍務省トップ、通称「冠(かむり)」の命令書だった。 「……莫の国が動いたぜ」 一瞬のうちに、空気が変わる。 「夏氏が危ういのですか」 藍が固い声で訊いた。夏氏とは莫の国と和の国のあいだにある小国である。 莫の国が、対和の国の要衝を築くために夏氏領に侵攻するかもしれないという情報は、かなり前からあった。 「たぶん、もうやられちまってる」 「……で、俺たちはなにをしたらいいのよ」 モップを壁にたてかけて、銀生は言った。 「どーせ、ロクでもないことだろうけどさ」 「悪いねえ。ま、これも因果だと思って」 「思ってもいいけど、もうちょっとギャラ上げてくんないかなー」 叶わぬこととは知りながら、言ってみる。鬼塚はにやりと笑って、 「とりあえず、報酬のほかに厠の修繕をプラスってことで」 「……なんなのよ、それ」 「おまえんとこのガキから上申書が出てたぜ。『トイレのドアを直してください』って」 「…………………」 「碧ーーーーーーーーっっ!!」 藍は義弟の金髪の上に特大の拳骨を落とした。 「いってーーっ」 「おまえ、冠さまになんてことを奏上したんだっ!」 「だってさあ、トイレのドアって、一度閉めたら開かないんだもん」 それは周知の事実だった。なにぶん古い建物である。いたるところにガタがきていて、厠も例外ではなかった。 厠のいちばん手前のドアは微妙に歪んでいて、力まかせに閉めるとなかなか開かない。もっともちょっとしたコツを知っていれば、簡単に開けられるのだが。 「おまえ、あそこは一旦、上に上げてからななめに押せば開くって教えてやっただろうが」 「やったよー。でも、開かなかったから……」 そういえば、四、五日前、厠に立った碧がなかなか帰ってこないので昏が様子を見にいったところ、ドアが開けられなくて四苦八苦していたことがあったっけ。藍はげんなりと肩を落とした。仮にも術者なら、移動の術を使って出てくればいいのに。「水鏡」の名が泣くぞ。 「だから、おれ、冠のおっちゃんに……」 「冠さまと言え!」 またしても、藍の雷が落ちる。碧はしゅんとして、下を向いた。 「……ま、おまえらもイロイロあるみたいだけどよ」 強面の男は、ぼりぼりと頭をかきつつ続けた。 「これは、急務だぜ」 「わかってるよ」 銀生はうっすらと目を細めた。声音が微妙に変わっている。 「要するに、俺たちは夏氏領に入ってる莫のやつらを追っ払えばいいんだろ」 「こっちが動いていると悟られないように、な」 「はいはい。それも、わかってますよーだ」 銀生は藍に目で指示を出した。藍が頷く。数瞬ののち、夏氏領の詳細な地図と最近の動向を記した資料が提示された。 「昏、碧」 特務三課の課長であり、ルーキー時代の指導教官でもあった銀生に呼ばれ、ふたりは中央のデスクを覗き込んだ。 「すぐに出立だ。行けるな?」 「承知」 ふたりの顔が引き締まる。と、その直後。 「あ、でも、ラーメンは……」 碧である。まったく、食い意地だけは人一倍張っている。 「帰ってきたら、何杯でも食わしてやる」 藍が宣言する。 「よーしっ。おれ、がんばるよっ」 握りこぶしをして、碧。昏は真剣な面持ちで、資料に見入っていた。 こうして。特務三課の本当の仕事が始動した。 |