本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT19 銀生、役得を堪能する

 よほど、神経がまいってたんだねえ。
 銀生は人事不省におちいった藍を、二階の空部屋に運んだ。事務所の長椅子でもよかったのだが、昼休みが終われば昏も戻ってくるし、翡晶もいる。目覚めたときにばつが悪かろうと判断したのだ。
 もともと独身寮だった建物である。ベッドや机などはそのまま各部屋に残っていて、泊まり込みの仕事があるときなどは、空いている部屋を仮眠室として使っていた。
 ちょっと埃っぽいけど、この際ガマンしてもらおう。スプリングの傷んだベッドに藍を寝かせて、自分もその横に腰を下ろす。
 青白い頬。閉じられた目の下には隈。夏氏の件ではこの人も責任を感じているようだったが、ここ数日はそれに加えて、翡晶や庸銘にかなり気を遣っていた。
 仮にも他国の王族である。いわゆる「お忍び」ではあっても、滞在中に何事かあっては槐の国との関係にひびが入る。あらゆる状況を考えて行動する人だけに、「もしも」の場合を思うと気が気ではなかったのだろう。
 そんなことになりっこないと思ったから、やっこさんたちを自分ちに呼んだんだけどね。
 銀生には、銀生なりの計算があった。
 翡晶が特務三課の事務所に現れたときから、槐の国が今回のことを利用してなんらかの要求をしてくるのはわかっていた。そして、王族である翡晶自ら出張ってきたということは、槐王の籐司と和王である九代目御門とのあいだにはすでに密約が交わされているはずだ。
 翡晶はおそらく、夏氏の始末を見届けにきたのだろう。それを確認したのちに、槐と和のあいだで協定を結ぶ。その調印を行なうための特使というのが、翡晶の本当の役目ではあるまいか。
 むろん、これは銀生の推測にすぎない。が、初日はあれほど翡晶に対して意見を述べていた庸銘が、翌日からはなにひとつ諫言しなくなったのを見ても、この推測はそれほど外れてはいないと思われた。
『そのあとのことは、ぼくの管轄外ですからね』
 翡晶はそう言ったが、「そのあと」など、もう決まっているのだろう。だから、自分の知ったことではないとうそぶいていたのだ。まったく、いい性格をしている。
 だからね、あんたが心配するようなことはないんですよ。
 銀生は藍の髪を撫でた。長くまっすぐな黒髪。碧が学び舎に入ったときから伸ばしはじめたというその髪は、腰の近くまである。
 願掛けなのだと、銀生は思っていた。碧がしあわせであるように。無事に任務をまっとうできるように。それを願っているのだろう、と。
 藍にとって、碧は特別な存在だ。金髪碧眼に生まれたという理由だけで疎まれ、蔑まれて育った碧。藍の両親に引き取られたとき、まともに話すこともできなかったという。
 人扱いされなかったという点では、俺もおんなじだけどね。
 ふと、昔のことを思い出す。わずかに交じった血ゆえに、自分の与り知らぬところですべてが決められていた。たしかに、この血は放置してはおけないものだろう。皆が恐れる「鬼」の血だから。
 ぎゅっと目を閉じる。解除。ふたたび目を開ける。
 視界が変わった。多角的な情報が脳に飛び込む。遠見や透視をする必要もなく、それらはインプットされていく。
 ひと通り周囲の情報を取り入れてから、銀生はベッドに横たわる愛しい人を見た。
 体温は平常。呼吸や脈動にも異常はない。血圧も正常範囲内だ。もう少し休めば、大丈夫だろう。目を覚ましたら、また仕事が遅れると文句を言うだろうが。
 今度は邪魔しませんよ。おとなしく、若さまと遊んでます。あんたに必要以上の気を遣わせないように。
 そっと唇を近づける。あごを持ち上げ、口を開かせた。深く口付けて、内部に「気」を送る。
 久しぶりだねえ。不埒なことを考えちゃいけないけど。でも、まあ、役得ってことで、少しだけもらいますよ。全部はムリだから。
 そういえば、はじめてあんたを「もらった」のもこの部屋だった。あんたが俺の「水鏡」になった日。
 いまでもはっきり覚えている。あのときの、あんたのすべてを。
 口腔内をゆっくりと味わう。舌をすくい上げるようにすると、それまで力のなかった体がぴくりと動いた。わずかに眉を寄せる。
 銀生は再度、目を閉じた。封印。鬼の力を宿した蒼眼を沈める。
「……気がついちゃいました?」
 唇を離して、囁く。うっすらと黒い双眸が開いた。何度かのまばたきのあと。
「なにを……してるんです」
 藍は言った。かすれた声。なんともそそられるものがあるが、ここはガマンしなくちゃね。
「なにって、看病してたんですよ」
「これが、看病ですか」
「口から『気』を送ってたんです。ちょっとはラクになったでしょ」
 嘘は言っていない。藍は訝しげにこちらを見ていたが、それ以上は追求してこなかった。そろそろと上体を起こす。
「大丈夫ですか」
「ええ。いま、何時です」
「えーと、もう昼休みは終わりましたねえ。しまったなあ。サービスランチ、食いそこないましたね」
「それは、ご迷惑をおかけしました。いまからでも昼食を摂りに行ってきてください」
 固い口調。あーあ。またそんなに肩肘張っちゃって。
「いいんですよ、べつに。あ、そうだ。なにか出前でも取りましょうよ」
「……ラーメンや餃子はやめてくださいね。匂いが籠もりますから」
「はいはい。碧たちのマネして、藤食堂の弁当にしましょうか。たしか出前もやってましたよね」
 先月、碧から藤食堂の出前用メニューをもらった記憶がある。
「じゃ、行きますか」
 銀生がそう言って立ち上がったとき、ドアをがんがんと叩く音がした。
「藍にーちゃーんっ。銀生さーん。いるんだろー。開けてくれよっ」
 碧だった。藍はあわてて服や髪についた埃を払い、ベッドから降りた。
「開けてくれって、おまえ、べつに鍵はかかってな……」
「あ、ダメですって!」
 銀生は叫んだ。ぴしり。空気が弾ける。
「……っ!」
 藍はその場にしゃがみこんだ。
「だから駄目だって言ったのに……」
 銀生は横一文字に印を切った。二重に張った結界が消える。
「どうして、結界なんか……」
 藍は銀生を睨みつけた。
「いや、その、だって、藍さんがゆっくり休めるようにって……」
「さては、不埒なことを考えてましたねっ」
「そんな〜。誤解ですよ。俺はただ……」
 あの「眼」を出すときに、念のために張っただけだ。
「ただ……なんです?」
「え、あの、つまり……」
「やっぱり、そういうことですか」
「違いますって。俺を信じてくださいよ〜」
 はっきり言って、不毛である。藍はぷい、と横を向いて、ドアを開けた。
「遅いよー、藍にーちゃん」
 碧ががばっと、藍に抱きついた。
「すまんすまん。で、どうしたんだ。庸銘どのも一緒か?」
「もっちろん。あのさ、おれ、とうとうやったんだっ」
「え……」
「術だよ、術! 解明の術も招聘の術も、カンペキだぜっ」
 これ以上はないというほど、晴れやかな笑顔。
「ほっ……ほんとか? ほんとに、術を……」
「ほんとだって。おっさんも太鼓判押してくれたんだぜ。すごいだろー」
「そりゃめでたいねえ」
 銀生は碧の顔を覗き込んだ。
「んじゃ、さっそく作戦会議……と言いたいとこだけど、おまえ、昼メシ食ったの?」
「あっ、そういや、まだだった」
 やっぱりな。銀生は苦笑した。
「昏が弁当買ってきてるはずだから、事務所で食べなさいねー。俺と藍さんも、いまから藤食堂の弁当、注文するから」
「え、藍にーちゃんも昼メシまだなの? じゃあさー、みんなで一緒に食べようよ。おっさんも翡晶さんもいまからだって言ってたし……おれ、下で待ってるからっ」
 そう言って、碧はばたばたと階段を駆け降りていった。
「さあて、俺たちも行きましょうかね」
 ぽん、と藍の肩を叩く。藍は無言のまま、こくりと頷いた。
 また、いろんなことを考えているんだろう。碧が術を会得したということは、いよいよ豊甜と対決するということなのだから。
 明るい午後の陽射しが廊下を照らしている。それぞれの思いを胸に、ふたりは部屋を出た。