本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT18 桐野藍の厄災の日々

 槐の国から二人目の客人を迎えて、四日目。軍務省情報部特務三課のオフィスでは、桐野藍が今日も最低の気分で職務を遂行していた。
 それは部下である黒髪黒目の青年も同じであるらしく、このところ、やたらとケアレスミスが多かった。いつもなら、どんな些細なミスでも書き直しを命じるのだが、いまそんなことをしていてはノルマの半分も達成できない。仕方なく、訂正印だけで受理することにした。
 不本意このうえないが、これも碧が解明の術と招聘の術を会得するまでの辛抱だ。
 なるべく機械的に、目の前の仕事をこなそうと思う。しかし、衝立の向こうでポーカーに興じている上司と客人の会話を聞いていると、労働意欲がどんどん削がれていくのは否めなかった。
「あらら、フルハウス? さっき三枚も捨てたくせに〜。若さま、なんかズルしたでしょ」
 三課長である社銀生は、槐の国の王族のひとりをねめつけた。
「ズルだなんて、人聞きの悪い。偶然ですよ。幸運というものは、つねに無欲な者の上に訪れるんです」
「その『無欲』なヒトが、賭け事の誘いに乗りますか」
「これは、わが国と貴国の親交を深めるための一行事と解してます」
「はいはい。そーゆーことにしときましょうね。でないと、お付きのヒトに怒られるから」
「庸銘は、ああ見えても賭け事が好きなんですよ」
 翡晶はくすくすと笑いながら、続けた。
「ただし、勝つとわかっている場合しかしませんが」
「そんなの、賭け事とは言わないですよー」
「ああ、そうですね。なにしろ、損をするのが大嫌いですから」
「それでよく、あんな分の悪いことやってくれてるねえ」
 翡晶が命じたからだろう。藍は思った。でなければ、あの男が手の内をさらすとは思えない。
「桐野主任」
 ぱさり。デスクに数葉の書類が置かれた。はっとして顔を上げる。昏がいつにもまして憮然とした顔で立っていた。枚数を調べて、
「少ないな」
 理由はわかっているが、言っておく。昏は表情ひとつ変えず、
「午後に埋め合わせをする」
「そうか」
 藍は確認印を押した。書類を手に、昏がオフィスを出ていった。総務部に提出したあと、藤食堂へ弁当を買いに行くのだろう。
 きのうは昼食を摂る時間があったようだが、今日はどうだろう。
「あと、もうちょっとなんだけどなーっ」
 今朝、碧が悔しそうにそう言っていた。
「すっごく細かい調整しなくちゃいけないからさー。ひとつしくじったら、ぜーんぶやり直しなんだぜ。目がチカチカしちまう」
 さすがに、疲労の色が濃くなってきた。あんな状態で、実際に招聘の術をかけることができるのだろうか。最終的には銀生や昏が豊甜の「器」と「本体」を滅却するにしても、そこまでの道筋を作るのは碧の仕事だ。こればかりは藍にも手出しできない。藍にできるのは、余所から邪魔が入らないように遮蔽結界を張るぐらいだ。
「今日の弁当は、ハンバーグにしてくれよなっ」
 ことさら明るくそう言って、碧は庸銘とともに演習場に出かけていった。なんとかコツを掴んでくれればいいのだが。
「ふふーん。今度はフラッシュですよ〜」
 応接間になっているオフィスの一角では、あいもかわらず銀生と翡晶がポーカーに没頭している。今回は銀生が勝ったらしい。まったく、ふたりとも緊張感がなさすぎる。もしかしたら、翡晶はここに「休暇」のつもりでやってきたのかもしれない。
 天央の砦では長老と若手がしのぎを削っていて、長である翡晶はその間に立って頭を痛めているように見えた。もっとも銀生によれば、それはあくまでも擬態であり、皆を競わせることによって最大の効果を引き出しているらしい。
 それもありうるとは思う。が、この男がおのれの仕事にのみ心血を注ぐとはとても思えない。今回の件にしても、おそらく自分の都合のいいように利用しているだけなのではないか。藍はそう考えていた。
「あー、そろそろ昼時ですねえ。若さま、昼飯どうします?」
「庸銘が戻ってきたら、食べますよ」
「え、でも、長引いてるみたいですよ。よかったら食堂に行きません? 今日は藍さんが寝坊しちゃったんで、俺も弁当を持ってきてないし」
 今日の食事当番は、藍だった。が、昨日はやり残した仕事があって、夜中までかかってやっていたため、今朝は朝食を用意するのが精一杯だったのだ。こんなことなら、就寝する前に弁当を作っておけばよかったな。そうすれば、銀生に嫌味を言われなくて済んだのに。
「ねえねえ、藍さんも一緒に昼飯食べに行きましょうよ〜」
「どうぞ、行ってらしてください。おれはまだ仕事が残ってますから」
 顔を見もせずに、言う。
「あー、もう、冷たいなあ。ゆうべだってフラれたし……」
 あたりまえだ。客人がひとつ屋根の下にいるのに、そんな気になれるか。
 藍はボールペンを置いて、顔を上げた。
「……社課長」
「はい?」
「勤務中は職務に関すること意外、口にしないでいただきたいと申し上げたはずですが」
「え、ああ、そうでしたねえ。でも、いまは昼休みですし」
「おれはまだ仕事が残っていると言ったでしょう!」
 ばん、と机を叩いて立ち上がる。
「手伝う気がないのなら、せめて邪魔をしないでくださいっ。だいたい、あなたはいつも、こっちが忙しいときに限って余計なことをするんですから。やりたいことばかりやってないで、たまにはやるべきことをやったらどうなんです。おれはあなたの『水鏡』であって、乳母でも召使でもありません。なんでも言う通りになるなんて思わないでください!」
「そんなこと、思ってませんよ〜。藍さんは俺のコイビトですもん」
「だから、そういうことを……」
 口にするな、と言おうとしたとき。急に視界が狭くなった。
 まずい。貧血だろうか。今朝、ゆっくり食べる暇がなかったから……。
 耳鳴りと浮遊感。やけにゆっくりと、意識が遠のいていった。