本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT16 昏のきわめて多忙な一日

 藍が槐の国へ出発して、三日目の朝。
 特務三課のオフィスに課長である社銀生が出勤してきたのは、例によって始業時間の一時間後のことだった。
「あれえ、どうしたの」
 銀生は応接間になっている事務所の一角に庸銘がすわっているのを見て、首をかしげた。
 この一週間あまり、庸銘は碧に解明の術と解術の方法を教えている。それは毎日、始業時間の五分後から終業時間までびっちり続き、ときには昼食を摂る時間すらないほどだった。その庸銘が、この時間までここにいるということは。
 銀生は自分のデスクの上に置かれた書類を見遣った。欠勤届だ。右上がりのきっちりとした文字が並んでいる。これは、昏の手蹟。
 やっぱりねー。ぴらぴらとそれを弄びながら、
「昏〜」
「……なにか」
 各部から回ってきた報告書や上申書に埋もれていた昏が、ちらりと上座に目を向けた。
「碧は?」
「過労だ」
 顔色ひとつ変えずに即答する。その「過労」の原因を作ったのは、自分だろうに。
「ふーん。そーゆーこと」
 ぽん、と確認印を押す。
「俺がどうこう言う筋合いじゃないんだけどさ。おまえ、碧がいま、どーゆー仕事をしてるか……わかってるよねえ」
 低い声で確認する。まかりまちがえば、国を挙げてのいくさになりかねないのだ。たった一日でも時間は惜しい。
 もっとも、昏の気持ちも想像はつく。どういう経緯があったのかは知らないが、昨夜は制御が利かなかったのだろう。
「今日はまあ見逃してやるけど、あしたは、ね」
「承知」
 短く答えて、視線を戻す。銀生は小さく肩をすくめた。長椅子に座している鈍色の髪の男に向かい、
「すみませんねー、庸銘サン」
「私は一向に構わぬよ」
 庸銘は腰を上げた。
「社どのが了解したのであれば、なにも問題はない」
「そう言ってもらえると、助かります。お詫びと言っちゃなんですが、せんべい、食います?」
 がさり、と「一文字屋」の袋を差し出す。
「よいのか」
「はあ?」
「勤務時間内に飲み食いをしても」
 どうやら、藍は庸銘にまで釘を差していったらしい。
「いや、その……ホントはダメなんですけどね」
「ならば、いまそれを食すのは諦めるべきであろう。長たる者、部下の範とならねばならぬ」
 なんとも、ごもっともな意見である。銀生は仕方なく「一文字屋」の袋を引っ込めた。


 そして、二時間後。昼休みの中庭では、スルメの焼ける香ばしい匂いが立ち上っていた。
「あのさ〜、もうちっと火を強くしてくれない?」
 銀生が七輪を覗き込んで、言う。
「その根拠は」
 庸銘は目だけを動かして、問うた。
「俺、スルメはよーっく焼いた方が好きなのよ」
「では、七輪をもうひとつ借り受けたい」
「は?」
「私は焙った程度のものが好みなのだ」
「……だったら、あんたの分だけ先に取ればいいでしょ」
「これ以上、火を強くすると焦げる」
「その焦げたとこがまた、旨いんでしょーが」
「個人の嗜好の違いを云々するのは、無意味だと思うが」
「はあ、まあ、そうなんだけどね」
 黙々と自分のやりかたでスルメを焼く庸銘を説得するのをあきらめて、銀生は二階の倉庫からふたつめの七輪を取ってきた。
「マイ七輪って、なんかムナシイ〜」
「他者に合わせておのれを曲げる方が空しい」
 たかがスルメでそこまで言いますか。銀生は心の中で苦笑しつつ、七輪に火を入れた。
「銀生」
 窓を開ける音とともに、よく通る声が中庭に響いた。
「確認印を頼む」
「ちょっと待ってよー。いまスルメ焼いてるとこだから」
 言いながら網にスルメを乗せていると、横から数葉の書類と印鑑が差し出された。
「え、なによ」
「午前中に提出する分だ」
 昏が憮然とした顔で、言った。
 うわ。なんか、こいつまであの人に似てきたねえ。仕方なく書類に手をのばす。
「拭いてくれ」
 すかさず、濡れ手拭いがその手に置かれた。
「公文書の汚損は……」
「罰金でしょ。わかってるよーだ」
 ほーんと、よく似てきちゃって。ため息まじりに手を拭いてから、銀生は書類に押印した。
「社どの」
 昏が書類を持って総務部へ向かったあと。庸銘はスルメを皿に取りつつ、語を繋いだ。
「かねてから一度、訊こうと思っていたのだが」
「はいはい。なに?」
「貴国の指揮系統は、いったいどうなっているのだ」
「どうもこうも、ちゃーんと機能してるよ」
「とてもそうとは思えぬが」
 庸銘は皿を手に、壊れかけた回廊に腰掛けた。
「あらら、そうかなー」
「少なくとも貴殿とあの一課の長を見ている限り、われらの常識では量れぬことが多すぎる」
 ……あのねえ。あんな「思い込んだら」な野郎と一緒にしないでよ。切実にそう思う。庸銘にしてみれば、特例オンパレードの特務課なんて、みんな同じに見えるのかもしれないが。
 銀生はこんがりと焼けたスルメを口にしつつ、ぽりぽりと頭をかいた。


 その日の夕刻。
 ばさり。
 デスクの上に、書類の束が置かれた。
「確認印を」
 終業時間まで、あと三十分。昏は銀生にぴしりと言った。庸銘は長椅子からその様子を見遣って、小さくため息をついている。
 あーあ。あとでまたなにか言われるかもなー。銀生は背中を丸めて、書類に判を押していった。
 ったく、これがウチの流儀なんだから仕方ないじゃないか。任務を円滑に遂行していくためには、名義上の上下関係はどうでもいい。各自がおのれの為すべきことを為せばいいのだ。
 それにしても、今日の事務書類の総数は半端ではなかった。もしかしたら、藍がいるときよりも多いのではないだろうか。
 昏のことだ。後々、藍に碧が欠勤したことを知られて、その日の事務処理数が通常より少なかったら、なにを言われるかわからないと危惧したのかもしれない。
「まだか?」
「おまえねえ、少しは上官に対する口のききかたってものを……」
「あなたがそれを言いますか」
 きっぱりとした発音。
 銀生は思わず印鑑を枠外に押してしまった。昏の息を飲む音が聞こえたが、もうそれはどうでもよかった。
「……藍さん」
 銀生の双眸が見開かれた。長椅子にすわっていた男の、闇色の眼もまん丸になる。
「若……」
 つねとは違う、うわずった声。
 戸口には、特務三課の主任である桐野藍と、もう一人。明るい砂色の髪と薄い灰緑の瞳の青年が、旅芸人のような派手な衣装をまとって立っていた。