本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT14 桐野藍の限りなくメロウな一日

 始業時間の三分後。
「……あいすまぬ」
 鈍色の髪の術者が、苦虫を噛み潰したような顔で現れた。
「明日こそは、遅参せぬよう心がける」
 ただでさえ固い声が、ますます固い。しかも暗い。藍はその原因を察し、深いため息をついた。
 おそらく、今日も道場の朝練に付き合わされたのだろう。錦織は「一年の計は元旦にあり。一日の計は日の出にあり!」と、毎朝の鍛練を欠かさない。
 事情を知らぬ誠はともかく、錦織にはもう少し気を遣ってもらいたいものだ。未知の術の解明という大きな仕事を抱えているのに、その頼みの綱でもある人物を朝っぱらから疲れさせてどうする。
「お気になさらず。本日の訓練は、少し遅らせますか」
「いや。そういうわけにもいかぬ」
 庸銘は碧を見遣った。
「小僧。行くぞ」
「えーっ、もう? 人使い荒いよ、おっさん」
 机に突っ伏していた碧が、面倒くさそうに顔を上げた。
「事は一刻を争う。それはおぬしも承知していよう」
「わかってるよーだ。……じゃ、昏」
 横に向かって、にかっと笑う。
「ああ」
 短く答えて、昏は碧を見送った。
 あの様子なら、昨日の影響はそれほどでもないな。藍はそう判断した。昏もそれなりに考えているということか。術の伝授がどれほど精密な作業であるか、十分に知っているはずだから。
 例によって、まだ銀生は来ていなかった。
 おかしいな。今日は「一文字屋」は定休日のはずだが。
 まあ、いい。三課の本来の仕事ならともかく、事務処理に関してはあの男はまったくの戦力外なのだ。勤務時間内に菓子を食べたり茶をすすったりラーメンを作ったり、そんなことをされるよりは、いない方がマシだ。
 亭主元気で留守がいい。そんな台詞が脳裡をよぎる。藍は気持ちを切り替えて、デスクに向かった。


 昼時。
 昏はいつものように、「藤食堂」の弁当を買いに出ていった。きのうは碧の昼休みと時間がずれてしまい、一緒に弁当を食べられなかったらしい。さて、今日はどうだろう。庸銘があのふたりの事情を斟酌してくれるとは、とても思えないのだが。
 また昼飯ヌキかもな。
 昨日、オフィスに戻ってきた昏は、まだ弁当を持っていた。どうやら待ち合わせの場所に碧が現れず、弁当を食いそびれてしまったようだ。
 そのせいか午後の作業効率がいくぶん落ちたが、午前中はかなりハイペースで進んでいたので、予定以上の仕事をこなすことができた。今日も昼までに、六割がた仕上げている。これで午後も楽勝だろう。
 それにしても、銀生がなんの連絡もなく昼過ぎまで出てこないのは、いくらなんでもおかしい。オフィスに寄らずに豊甜の警護に行ったにしても、遠話(テレパシー)で知らせてくれればいいのに。
 藍は窓の外を見遣り、空に向かって念を飛ばした。
 郊外の家。豊甜がいる冠の私邸。本部。そのどこにも、銀生の「気」はない。
 どうでもいいことはペラペラとよくしゃべるくせに、肝心なことはなかなか口にしない。仕事でも、私事でも。
 まったく、いまごろどこでなにをしているのか。
「いいですねえ、その顔」
 耳元で、声。
「……っ……!」
 背中から腰に電気が走ったような気がした。一瞬、ひざの力が抜ける。広い胸にすっぽりと抱き込まれた。
「危ない危ない。特務三課の主任ともあろう人が、貧血ですか?」
 銀生がこのうえなくきれいな笑みを浮かべて、言った。
 いつのまに入ってきたのだ。いや、扉の開いた気配はなかった。とすれば、どこからか直接、飛んできたのか。
「あなたって人は……」
 カッとなって、にらみつけた。
「いきなり至近距離に現れるのはやめてくれと、いつも言ってるでしょう!」
「だーって、こうでもしないと、カッコつかないですから」
「格好って……なにがです」
「四時間も遅刻したうえにフツーにドアから入ったら、藍さんに怒られますもん」
「どっちにしたって、怒りますよっ」
「怒り方が違うじゃないですかー。床に正座ってキツいんで、断然、こっちの方がいいです」
 腰を引き寄せ、頬に口付ける。
「ひねりワザで誤魔化さないでください!」
 なんとか銀生の魔手から逃れる。
「ワザだなんて〜。俺の愛を疑うんですか?」
 なにが「愛」だ。真っ昼間から仕事場で押し倒されてたまるか。もうすぐ昼休みも終わりだ。万が一にも昏に見られたら、このあとの仕事がやりにくいじゃないか。
 藍は呼吸を整え、ふたたび銀生を見据えた。
「こんな時間まで、どこに行ってたんです」
 念が届く範囲にはいなかった。もしや冠の密命でも受けて、遠出していたのだろうか。
「んー。ちょっと、ウラを取りにね」
「裏?」
「夏氏ですよー。ありゃ、なかなかの食わせモンだね」
「豊甜どのが?」
「厳密に言うと、ホンモノの豊甜がね」
 切れ長の双眸が冷ややかに細められた。
 ぞわり。先刻とはまた違った意味で、背筋が震えた。この男の「人」以外の部分がちらちらと垣間見えている。
「夏氏は術者の家系じゃなかったはずなんだけどねえ。先代の王には何十人も側室がいたし、どっかで血が交じったかな」
「それは、どういう……」
「先祖返りですよ」
 銀生は自分の眼を指差した。
「コレと同じで……ね」
 一瞬のうちに、色が変わる。黒から、深い深い青に。
「ぎっ……銀生さん、こんなところで……」
 あわてて周囲を窺う。
 この目のことは、冠をはじめごく一部の者しか知らないのだ。銀生が、特殊な「血」を引いているという証拠。
「はいはい。やめますよ」
 すう、と、色が戻る。藍はほっと息をついた。まったく、心臓に悪い。
「こーゆーもんは、たとえどれほど血が薄められても消えることはない。忘れたころに、とんでもない場所に現れる。豊甜は、そういうひとりだったみたいですねえ」
 たしかに、夏氏の王族に術者の血をひく者がいたとしても、さほど不思議ではない。かつて東西貿易で栄えた夏氏国には各地から雑多の民族が集まり、王族の中にも他国の血を受けた者は多くいたのだから。
 しかし、「ホンモノ」の豊甜とはどういうことだろう。あの者はニセモノだったということか。藍が疑問を口にすると、
「器は豊甜本人ですよ。でも、意識は別物だ。というより、豊甜自身が造り出した影だと俺は踏んでます。でなきゃ、俺がニセモノの『気』を読めないはずないですもん」
 術が封じられている、と庸銘は言った。だが、その性質を見極めることはできなかった。銀生でさえも、豊甜の「気」に異状があるとは察せられなかった。それはつまり、他者にねじ曲げられたのではなく、自らが意図して作ったものであったからなのか。
 ますます、自分はとんでもないものを引き入れてしまったことになる。莫の国を欺き、いままた和の国をもたぶらかそうとする化物を。
「おそらく、ホンモノはまだ夏氏の城にいますよ。だれかの体を乗っ取って、ね」
 銀生はそれを探りに行っていたのか。しかし、よく短時間でそこまで調べ上げたものだ。
「そーゆーワケで……やっこさんにも、このことを……」
 語尾が消える。ふらり。上体が傾いだ。
「え……」
 それこそ傀儡の糸が切れたように、銀生の体は床に崩れた。