本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT13 三課と一課のそれぞれの事情

 やはり、銀生と碧がいないと仕事がはかどる。
 夕刻、予定よりも二割ばかり多くの事務処理を終えて、藍は上機嫌だった。昏は眉間にしわを寄せている。今日は経費の計算やら来月の予算の調整などで、細かい計算や確認作業が多かったせいだろう。
「よし。では、これを経理課へ」
「承知」
 報告書や申請書の束を持って、昏が部屋を出ていく。まもなく終業時間だ。今日は残業は勘弁してやろう。おそらく碧はへとへとになって帰ってくるはずだから。
 そんなことを考えながらデスクの上を片付けていると、扉を叩く音がした。きっかり三回、律儀なほど等間隔のノックだ。
「どうぞ」
 藍は戸口に向かって声をかけた。
「失礼いたします!」
 きびきびした足取りでオフィスに入ってきたのは、特務一課に配属されている錦織誠(にしきおり まこと)だった。ちなみに一課長の錦織文麿は、誠の養父である。
「父の代わりに、庸銘先生をお迎えに上がりました」
「庸銘先生?」
 たしかに名目上、庸銘はトレーナーということになっているが、なぜ一課所属のこの男までが「先生」などと呼ぶのだろう。
「は。庸銘先生は諸国を漫遊している高名な術者でいらっしゃるとか。今朝は、槐の国で習得したという見事な拳法を披露してくださいました。先生が和の国に滞在しておられるあいだに、ぜひともあの拳法を指南していただきたいものです!」
 かなり興奮している。もともと一本気な男ではあるが、朝練の最中もこの調子だったのだろうか。庸銘が不本意そうに遅刻を詫びていたが、もしかしたら誠に引き留められていたのかもしれない。
 それにしても、いくら庸銘の身分を明かせないからといって、錦織もいい加減なことを言ったものだ。単に三課の臨時トレーナーだと紹介しておけばいいものを。
「で、庸銘先生はどちらに?」
「いま、碧に稽古をつけてもらっている。まもなく戻ってくると思うが……」
「えっ、碧くんは一対一で教えを受けているんですか! なんともうらやましい話です。もし碧くんがあの拳法を会得したら、ぼくにも教えてもらえるよう、ぜひ桐野主任からも口添えしてください!」
 なにやらどんどんヒートアップしている。とりあえず椅子でも進めるかと思ったとき、ドアが大きな音をたてて開いた。
「藍にーちゃん〜」
 転がるようにして碧が入ってきた。服は汚れて、ぼろぼろになっている。予想はしていたが、かなりしごかれたらしい。
「あのおっさん、やることがメチャクチャだよー。ちょっと気を抜いたら何メートルも飛ばされるし、休憩だって言うからすわったら緊縛術かけられるし……」
「素晴らしいじゃないか、碧くん」
 誠が大きな目をさらに大きく見開いて、言った。
「庸銘先生に、そこまで本気になってもらえるなんて。ぼくはきみを尊敬するよ」
「あれえ、まことちゃん?」
 床にへたり込んだまま、碧はちらりと誠を見上げた。誠は戦災孤児で、学び舎に入るまでは一葉と同じく桐野家が出資していた孤児院にいた。当然ながら、碧や藍とは子供のころからの知り合いだ。
「なんで、まことちゃんがここにいるんだよ」
「庸銘先生を迎えに来たんだが……」
「おっさんなら、もう帰ったぜ」
「えっ、おひとりでお帰りになられたのか?」
 驚きと失望を混ぜたような声で、誠は言った。
「そんな……。今朝、終業時間に三課まで参りますと申し上げたのに」
 それが嫌で直帰したな。藍は納得した。
 まあ、わからなくはない。熱血漢の錦織だけでも相当ハイテンションなのに、そのうえこの「生真面目」を絵に描いたような誠にまでまとわりつかれては、精神の休まる暇がないのだろう。
「それなら、ぼくも早々に戻らねば。桐野主任、失礼いたしましたっ」
 背中に物差しでも入っているかのような姿勢できっちりと礼をして、誠は来たときと同じくきびきびとした足取りでオフィスをあとにした。
「はーっ。あいつって、いつ見てもテンション高いよなー」
 普段なら誠以上に元気な碧が、ため息まじりに呟いた。
「なーんか、ますます疲れてきた」
「碧!」
 戸口から声がした。昏だ。やたらと早い。もうすぐ終業時間だからと、急いで戻ってきたな。
「ずいぶんひどいな。やつは?」
「先に帰った」
「そうか」
 両のこぶしが小刻みに震えている。言いたいことは山ほどあるはずだ。仕事とはいえ碧を他国の術者に預けるなど、不本意このうえないはずだから。
 もっとも、それは藍とて同じである。今日のところは、まだいい。あの男としては、とりあえず碧の実力や性格を見極めるためにいろいろな術を試してみたのだろう。
 問題は、明日からだ。
 本格的に術の分析や解明のための印を覚えるとなれば、精神的にも肉体的にも負担は大きい。本当は、碧を自分たちの家に連れていきたかった。そうすれば食事や睡眠の管理もできるし、なにより碧がどこまで術を会得したか、つぶさに観察できる。だが。
 それは無理だろうな。ちらりと黒髪の部下を見遣る。
「さっさと立て」
 昏は碧の腕を引っ張った。
「えー、もう、疲れたよお」
「甘えるな。置いて帰るぞ」
「だってー」
「ひとりで、『歩いて』帰りたいか?」
「えっ、それって……」
 途端に表情が明るくなった。ぴょん、と、碧が立ち上がる。
「んじゃ、藍にーちゃん。またあしたっ」
「……ああ。気をつけて帰れよ」
 終業時間はすでに過ぎている。引き留める理由もない。藍は部下たちの退出を許した。
 部屋を出る直前に、昏の口元がわずかに笑みの形を作ったような気がしたが、今日は見逃すことにした。おそらく昏は、訓練でへとへとになっている碧を、移動の術で家まで連れて帰るだろうから。
「ただいま〜」
 背後から、のっそりとした声。銀星だった。
「仕事、ちゃーんとしてきましたよ」
 にんまりと笑って、デスクの横に立つ。
「いまのところ、異状なしです。術が封じられてるなんて、まったくわかりませんねえ」
 銀生にも察知できないほどの、巧妙な術。それを明らかにして、滅することが碧の任務なのだ。なるべく考えないようにしていたが、やはり不安は残る。
「藍さん」
 銀生の手が、藍の肩を抱いた。
「心配なのはわかりますけどね。俺たちは、俺たちのできることをするしかないんですよ」
 唇が近づく。軽い口付け。
「じゃ、帰りましょうか」
「……はい」
 目を伏せて、頷く。戸口へ向かおうとしたとき。
「あーーーっっ!!」
 耳元で叫ばれた。
「なっ……なんですか」
「いやあ、久しぶりにいい雰囲気だったんで、危うく忘れるところでしたよ〜」
「だから、なんのことです」
「せんべいですよ。返してくださいね」
「…………わかりました」
 途端に、現実に引き戻された。
 藍は特殊ケースの鍵を手に、ロッカーへと向かった。