本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT12 桐野碧の新たなる旅立ち

 ガチャン。
 始業十五分前のタイムカードの音は、銀生が帰還した翌日からふたたび、ひとつになった。
 そこはかとなく残っているスルメの匂いを一蹴するため、窓を開ける。朝の光とともに新しい空気が流れ込んできた。
 それにしても、まいったな。
 藍はいまさらながら、事の重大さを痛感していた。莫の国の長老の館で豊甜を見つけたとき、それが夏氏の王族だと確認しただけで、ほかのチェックを怠ったのは間違いなく自分のミスだ。
『夏氏には、なんらかの術が封じられている』
 庸銘は断言した。とすれば、自分は莫の国の術中にはまったのかもしれない。豊甜をわざと和の国に渡し、時期を見て術を発動させる。莫の国はとんでもないパンドラの箱をプレゼントしてくれたわけだ。そうとも知らずに、自分は……。
「藍にーちゃん、おはよ〜」
 聞き慣れた、明るい声。藍は握っていたこぶしをゆるめた。
 始業五分前。碧がとことこと窓際まで来た。昏は軽く一礼して、さっさと自分のデスクに向かう。
「あのさ……なんかあった?」
 ぼそり、と碧が問う。
「え、いや、べつに」
「だったらいいけどさー。元気ないみたいだから」
 心配そうな顔。
 まいったな。ふたたび、思う。昔からそうだった。こちらのわずかな心の動きを感じ取って、まだうまく回らない口で必死に訊いてきたっけ。
『藍にーたん、らいじょーぶ?』
 あのころの碧は、サ行がタ行に、ダ行がラ行になる癖があって、それを矯正するのにだいぶかかった。
 藍がしみじみと思い出に浸っていると、
「やーっぱ、ヘンだよ。藍にーちゃん」
 ぷうっとふくれた頬。藍は微笑んだ。
「夏氏の件で、銀生さんがまた厄介なお客さんを連れてきたからな。いろいろ、調整しないと」
 半分だけ、真実を言う。
「あのおっさんのことかー。そういや、まだ来てないんだな」
 きょろきょろと、碧はあたりを見回した。
 もう始業時間である。銀生が遅刻するのはいつものことだが、あの男はどうしたのだろう。表向きは臨時トレーナーということになっているのに。
 あのあと、特務一課の課長である錦織が迎えに来て、やたら大仰な歓迎の言葉を述べたあとに、腕を組むようにして帰っていった。表情こそ変わらなかったが、あの男の思考回路が一瞬寸断したのはたしかだ。
 錦織家は代々続いた体術の道場である。現在も何人かの弟子と一緒に暮らしていて、毎日夜明けとともに修錬を行なっていた。
「すまぬ」
 始業時間から遅れること二分。
 鈍色の髪と闇色の眼の男が、特務三課の扉を開けた。
「刻限に遅れたことは、申し開きもできぬ」
 神妙な口調。ちらりと上座を見遣り、
「……社どのは、どちらに」
「まだです」
 藍は奥歯を噛み締めた。今朝、あんなに何度も念を押したのに。せめて今日だけは始業時間までに出てくるように、と。
 きっとまた、「一文字屋」の店先で開店を待っているのだろう。まったく、懲りない性格だ。
「ほう。さすがに日々、多忙であると見ゆる」
 わずかに口の端が上がる。表情がないのも無気味だが、この男が顔に感情を浮かべるのはもっと恐い。藍は心の中で、銀生に罵詈雑言を浴びせた。そうでもしないと、やっていられない。
「お察しいただき、いたみいります」
 なんとか、言葉をしぼりだす。庸銘は碧の前に立った。
「では、行くぞ」
「え?」
 碧がぽかんと口を開けた。それはそうだろう。まだ碧にはなにも話していない。
「なんのことだよ、おっさん」
「碧。失礼だぞ」
 一応、注意する。
「庸銘どのは、おまえに解明の術を授けてくださる」
 そうなのだ。庸銘は、豊甜になんらかの術が封じられていることまでは掴んだ。が、それがどんな性質のものなのか、判然としない。
「いま少し対象に近づければいいのだが、迂闊に動いて術者に気取られてはならぬ。状況が変わったと見るや、術を発動させるやもしれぬでな」
 結局、いままで豊甜の警護に当たっていた碧に、解明の術を教授することになったのだ。
「カイメイの術……って、なんのこと?」
 首をかしげる。藍は事情を説明した。書類の整理を始めていた昏の手が止まった。
「そういうわけで、今日からおまえは庸銘どのに付いて……」
「桐野主任」
 昏が口を開いた。
「その仕事は、俺が……」
 言うと思った。自分もそう思ったのだ。碧には無理だ、と。
 むろん碧とて、もう一人前だ。結界術はかなりのものだし、潜在的な「気」はは銀生に優るとも劣らない。が、その膨大な力をコントロールするための精神的な部分はまだまだ発展途上だった。
 今回のように未知の術に対して探りを入れ、それを分析して解術するなどという複雑な作業が果たして行なえるかどうか。その不安は藍にもあった。しかし、庸銘は碧以外にこの役目を振るつもりはないようだった。
「それはならぬ」
 藍の代わりに、断じる。昏はぐっと唇を噛み締めた。
「社どのも承知のことだ。行くぞ」
 再度命じられ、碧は立ち上がった。
「わかった。じゃ、昏」
 いつも通りに手を振る。昏はしぶしぶ、頷いた。
「……また、あとで」
「うん。行ってくる。弁当、買っといてくれよな」
 庸銘はそれを、めずらしいものでも見るような顔で見ていたが、とくに意見をはさむことはしなかった。無言のまま、出ていく。碧もそのあとに続いた。
 オフィスに、なんとも言えないぴりぴりとした空気が満ちる。
「なぜだ」
 たっぷり五分ばかりたったのちに、昏が言った。
「銀生だけじゃなく、どうしてあんたまで、こんなことを認めた」
 碧のことをなによりも大切に思っているはずの、あんたが。
 言外の声が聞こえた。静かな怒り。理屈ではそうするしかないとわかっていても、感情がそれを許さない。みすみす、碧を危険な目に遭わすことを。
「ほかに、方法があるか」
 藍は自らの心の揺れを抑えつつ、言った。
「術の性質がわからねば、夏氏を始末することもできないだろう」
 万一の場合は、豊甜の命を奪わねばならない。しかし、いまの段階ではそれも危険が大きい。心臓が止まったときに発動する術もあるのだ。
「だからといって、あいつひとりに全部負わせるなんて……」
「ひとりじゃないでしょ〜」
 のんびりとした口調とともに、彼らの上司が戸口に現れた。醤油の香ばしい匂い。やはり、「一文字屋」に寄ってきたらしい。
「やっこさんがバックアップするし、俺だって遠巻きにガードぐらいできる。まあ、解術の方法を覚えるまでは、だいぶタイヘンだろうけどねー。そのへんは、おまえがフォローしてやればいいでしょ」
 にんまりと、銀生は笑った。
「最終的には、俺とおまえで決着をつけることになるだろうし」
 術の性質さえわかれば、あとは「御影」の仕事だ。
「……わかった」
 完全に納得したわけではなかろうが、昏は自分の仕事に戻った。銀生は「一文字屋」の袋を手に、ほくほくとした顔でデスクに着く。
「あー、久しぶりだなー、この香り」
 一枚取り出して、口に運ぶ。バリボリバリボリ……。約二週間ぶりに、オフィスにせんべいの咀嚼音が流れた。
「やっぱり、焼き立てはいいですよー。香りが違いますもんねえ。……あっっ!! なにするんですかっ」
 銀生はあわてて立ち上がった。藍が横からせんべいの袋を取り上げたのだ。
「お預かりします」
 言いながら、奥のロッカーへと向かう。そこには、機密書類などを保管しておくための特殊ケースが入っていた。
「えええええっっ。またその中に仕舞っちゃうんですか? カンベンしてくださいよー」
「仕事が終わったら、お返しします」
「そんなこと言って、このあいだのは返してくれなかったじゃないですか〜」
「あれは、碧にやりました。あなたの帰還がいつになるか、未定でしたから」
「……今日は、ほんとに返してくれるんでしょうね」
 恨みがましい目つきで、問う。
「せんべいの心配をするより、夏氏の警護にでも行ってきたらどうです。あなたなら碧の『気』を作ることもできるでしょう」
「そんなのは、昏に……」
「これ以上、おれの仕事を増やさないでくださいっ!」
 ふだんの倍ぐらいの音量で、藍が怒鳴った。
 はっきり言って、銀生がオフィスにいてもなんの役にも立たない。その点、昏は戦力になる。この一年あまり、みっちり仕込んだ甲斐あって、昏の事務処理能力は飛躍的に伸びているから。
「もしかして、きのうの晩、俺が洗い物をしないで寝ちゃったこと、まだ怒ってます?」
 馬鹿野郎。せっかく忘れてたことを思い出させるな!
 藍はぎろりと銀生をにらんだ。
「いま、この時点で夏氏に何事かあったら、あなたに詰め腹切ってもらいますよ」
 重々しく言い渡す。銀生は背を丸め、のっそりとオフィスを出ていった。