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本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜 by近衛 遼
ACT11 特務三課の招かざる客
「なんか、いい匂いがしてきたなー」
碧が窓に向かって首をのばした。
「もう焼けたかな。おれ、ちょっと見てくる」
「碧! 報告書は書けたのか」
藍がぴしりと言う。
「え、まだだけど……あしたじゃダメ?」
これまでなら、それでもよかった。どうせ昏が代筆するのだから。が。
今日は駄目だ。この十日あまりの苦労を水の泡にされてはたまらない。銀生が帰ってきただけでも規律が乱れるのに、よりによって天央の術者まで。
いきなり三課のオフィスに現れた男は、庸銘(ようめい)と名乗った。藍の記憶が正しければ、庸銘は天央の長の守役であり、いままで単独で動いたことはほとんどない。
夏氏の件で、槐の国からなんらかの横槍が入るのは覚悟していた。監視も兼ねて、だれかが来るかもしれないとも思っていた。しかし、まさか長の側近が出張ってくるとは。
「でーきた、できた〜」
脳天気な声がして、中庭に面した窓が開いた。
「おまえらも、食べる?」
銀生が皿を指差して、訊く。
「うんっ。食べる食べる」
碧が席を立つ。昏は眉をひそめつつ、碧のデスクから報告書の用紙を取った。
また、あんなことを……。
藍は心の中で舌打ちした。それを盾に付け入るつもりか。多分に私情を交えた判断であることは否めないが、どうしてもそう思ってしまう。
「うっわー、これ、すっごく分厚いんだなー」
「海南産の逸品だからねえ。よく味わって食べるよーに」
皿に乗っているのは、肉厚のスルメだった。
槐の国は海に面していないので、当然ながら海産物といえば塩漬けか乾物か干物が主流である。いまは涼の国との関係が良好なので、かなり多くの品が流通しているようだ。
その涼の国の最高級のスルメを、庸銘は手土産代わりに持参した。
「つまらぬものだが」
庸銘はまるで親書でも手渡すように、仰々しく折敷を献じた。その上にはスルメ。ご丁寧に袱紗まで掛けてある。一瞬、なんの冗談だと思ったが、本人は至極真面目な顔をしている。仕方なく、作法通りに礼をして受け取った。
「じゃ、さっそく焼きましょうか〜」
さすがに以前「一文字屋」のせんべいの件で釘を差したのが効いたのか、銀生はうきうきと二階の倉庫から七輪を出してきた。そして、このありさまである。
仮にも情報部の将校と、砦のナンバー2ともいうべき男が、中庭で七輪を囲んでスルメを焼いている。なんとも異様な光景であった。
もっとも、そんなことは金髪の部下にはまったく気にならないらしい。
「んー、うまいっ。なあなあ、昏も食う?」
碧は皿を手に、デスクに戻った。
「仕事中だ」
憮然とした顔で、昏。碧はその手元を覗き込み、
「あれ? それ、おれの報告書……」
「スルメを食べた手でさわったら、用紙が汚れるだろう」
「あ、そーか。そんなことしたら、書き直しだもんな。サンキュ、昏」
ひょい、とスルメをひと切れ差し出す。
「なんだ」
「手、汚さなきゃいいんだろ。食えよ。ほんっとに旨いんだから」
「……そうだな」
碧の手にあったスルメを口にする。
ちらり。黒い双眸がこちらに向けられたが、藍はそれを完全に無視した。ばかばかしい。やってられるか。
「藍さ〜ん。そんなに恐い顔しないでくださいよ。もう終業時間は過ぎてるんですよ」
真横に、銀生が立った。
「そりゃ、報告書はまだみたいですけど、ほかの仕事はあしたでも十分間に合うでしょ」
「……確認もしないで、どうしてそう言い切れるんです」
「だって、あんたのことですもん。俺がいないあいだ、びっちりばっちり、あいつらを働かせてたでしょうからね。明日できることも今日済ませてたんじゃないんですか?」
図星だった。銀生が帰還すれば、また事務処理の時間が削られるのは目に見えている。そう思って、提出期限の来ていないものまで次々に仕上げていたのだ。
「まあ、今日はもう上がりってことで。おまえたち、帰っていいよー」
銀生は碧たちに向かって、ひらひらと手を振った。碧は「やったあ」と言いつつ、スルメをポケットにねじ込んでいる。昏はてきぱきと机の上を片付けて、立ち上がった。一枚の書類を藍に差し出す。
「よろしいでしょうか」
それは、碧の報告書だった。ざっと見たところ、不備はない。
「受理する」
「では」
短く言って、昏は踵を返した。碧はもう扉の横にいた。なにやら話しながら、廊下に出ていく。
「藍さん」
スルメをくわえた銀生が、ぽん、とひとつ、肩を叩いた。
「久しぶりに、飲みに行きませんか。おごりますよ」
「飲みにって……庸銘どのをお送りしなくていいんですか」
他国からの来賓や使者は、冠の公邸に寝泊まりするのが慣わしだ。当然ながら、その送迎は各部の仕事である。
「あ、それはねー、錦織に任せました」
「はあ?」
「やっこさん、錦織んちに泊まることになったんで」
「どうしてです。庸銘どのは三課に出向してきたはずでしょう」
「いやあ、ほら、亡命の第一報が一課からだったでしょ。あれがガセネタだったっていうんで、錦織が思いっきり責任感じてましてねえ」
「だからといって、一課長に三課の仕事を押しつけるというのは……」
「うーん。厳密に言いますと、それってウチの仕事じゃないんですよ」
「え?」
「今度のことは、あくまでも内々のことですからねー。やっこさんが天央の人間だって知ってるのは、俺たちと冠のおやじさんと……あとは錦織と鬼塚ぐらいのもんです。怜は、もしかしたら薄々感づいてるかもしれませんけど」
やはり、この男には管理職としての自覚が足らない。それでなくとも複雑な状況なのに、ますますややこしくしてくれて。
「ま、そんなわけで、やっこさんはあいつらの臨時トレーナーってことになってますんで、そこんとこヨロシク」
トレーナーだと。まさか「本当に」実習させるわけじゃないだろうな。藍は窓の外を見遣った。
庸銘は、槐の国でも指折りの術者である。とくに解術を得意とし、彼にかかれば解明できぬ術はないとまで言われていた。
「社どの、ものは相談だが」
スルメを乗せた皿を片手に、庸銘が窓の外から言った。
「しばし、あの者を借り受けたい」
「あの者って?」
もぐもぐと咀嚼しつつ、銀生は訊ねた。
「夏氏の警護をつとめている者だ」
「……碧のことですか」
藍は眉をひそめた。
「貸さない、とは言わないけどさー」
銀生はわずかに目を細めた。声音も微妙に変わっている。
「米や味噌を貸すのとはわけが違うからねえ。使用目的をはっきりさせてもらわないと」
「なるほど。たしかに」
庸銘は頷いた。しばらくの沈黙ののち。
「夏氏には、なんらかの術が封じられている」
ほとんど聞き取れぬほどの低い声で、天央の術者はそう言った。
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