夢の終焉 by近衛 遼 ACT5 「刺激を与えないようにと言ったはずですが?」 御影研究所の研究員、柊宮居は、特務三課課長に冷ややかな視線を向けた。 あのあと、銀生は再び、藍を御影研究所に連れてきたのだ。強制的に記憶を引き戻したことによって、後々影響が出る可能性もある。それを調べてもらうためだった。 「なんの検査も下準備もせずに意識を操作するなんて、危険極まりない。第一、『昏』の力を使うのは任務中に限られているはずです。これは重大な軍規違反ですよ」 「……上に報告しちゃったり、します?」 銀生は首をすくめて、お伺いをたててみた。なんとか言い逃れる自信はあるが、できればそんな手間はかけたくない。始末書を書くのもイヤだ。 「とりあえず脳波に異常は見られませんし、そのほかの数値も正常範囲内ですから、今回は特別に研究所内で処理するということで、柴所長も了解しています」 「恩にきます〜。今度、『一文字屋』の詰め合わせと『吉膳』の三段弁当を差し入れますねー」 調子に乗ってそう言うと、 「結構です」 即答で断られた。 あらあら、お固いねえ。このへん、なんとなく藍さんぽいかも。 宮居は元「水鏡」候補だったが、演習中の事故が原因で御影本部に入ることができず、研究所の職員になった。年は銀生より四つ五つ上だったはずだが、童顔なので藍とあまり変わらないように見える。 「なにか?」 ちろりとにらまれた。いけないいけない。ちょっと気を抜いて、余計なことを考えてしまった。銀生は居住まいを正し、 「えーと、あの、それでウチの主任、いつごろ目を覚ましますかねえ」 部下を心配する上司の顔を作って、訊いた。宮居は視線をカルテに移した。 「意識操作を受けた場合、その精神的かつ肉体的負担には個人差がありますが、桐野さんはトップクラスの『水鏡』。おそらく二十四時間以内に覚醒するでしょう」 「てことは、明日の朝か、遅くとも昼までには……」 「そういうことです」 宮居は断言した。寝台の横の計器を確認してから、戸口に向かう。 「では私は引き上げますが、くれぐれも、もう刺激を与えるような真似はしないでくださいね」 しっかりと釘を差し、宮居は部屋を出ていった。 翌朝。銀生は遠話で昏に連絡を取った。 『わかった。碧が起きたら、行く』 それだけ言うと、ぷつりと遠話は途切れた。 起きたら……って、もうすぐ始業時間だよ。銀生は苦笑した。どうやらあっちも、タイヘンだったみたいだねえ。 その原因を作ったのは自分だが、そんなことはとっくの昔に棚に上げているので、いまさら下ろしてみたところで仕方ない。さあて、碧と藍さんと、どっちが先に目を覚ましますかね。 銀生は昏々と眠る恋人を見つめた。寝顔は同じだな。ふと、そんなことを考える。 いつもの藍と、この二十日あまりの藍。どちらも寝顔は変わらない。きれいに形作られた相貌は、夜通し見ていても飽きることがないほどだ。 まあ、でも、起きてるときの方が飽きないけどね。ちょっとからかっただけで、怒ったり拗ねたり文句を言ったり干渉してきたり、楽しいったらないよ。 意識が戻ったら、最初になんて言うだろう。いきなり平手打ちってのもありうるかも。 あれこれリアクションを想像しながら、銀生は藍が目覚めるのを待った。 「藍にーちゃんっっ!!」 昼間近。 壊れんばかりにドアを開けて、金髪の部下が部屋に飛び込んできた。うしろには、その相棒の姿。 「記憶が戻ったって聞いて………あれ?」 碧は寝台の前で立ち止まった。ぴくりとも動かない義兄を見下ろし、 「どっ……どーしたんだよ、藍にーちゃんっ。またなんかヘンなことになっちゃったのか?」 ゆさゆさと肩を揺する。 「なあっ、起きてよ、藍にーちゃ……」 「よせ」 昏が碧の腕を取った。 「でも、昏っ」 「刺激するな。まだ覚醒していないだけだ。……そうだな、銀生?」 ちらりと横を見遣って、問う。長椅子に腰掛けていた銀生は、のっそりと立ち上がった。 「んー、まあ、そーゆーこと。もうちょっと早く意識が戻ると思ってたんだけどねえ。ここのベッド、寝心地いいみたいで」 「ほんとに、寝てるだけ?」 碧が唇をとがらせた。あらあら、疑い深くなっちゃって。らしくないよ、そんなの。銀生は苦笑した。 「ほんとに、ほんと。心配しなくても大丈夫だって」 じつは先刻、検温に来た宮居が、正午を過ぎても目を覚まさなければ再検査をすると言っていたが、そのことは碧には黙っていた。昏は透視していただろうから、知っているはずだが。 「それより、おまえ、なーんか調子悪そうじゃないの。ビタミン剤でももらってくれば? そんな顔してたら、藍さんが心配するよー。おまえは元気で明るいのが取り柄なんだから」 「え、そっ……そんなにヒドイかな。じゃ、ちょっと行ってこよっと」 自覚はあったらしい。碧はほっぺたをこすりながら、昏とともに部屋をあとにした。 あいつがあんなになっちゃうなんて、よっぽどだったんだねえ。部下たちを見送りながら、銀生は小さくため息をついた。そのとき。 「しまった!」 跳ねるような声とともに、藍ががばっと寝台の上に起き上がった。ふらり。わずかに上体が傾ぐ。 「藍さん!」 銀生は枕辺に駆け寄り、藍の背を支えた。 「気がついたんですね。そんなに急に起き上がっちゃダメですよ」 「いま何時ですかっ。どうしてもっと早く起こしてくれなかったんです。今日は経理課と来期の予算の打ち合わせが……………」 そこまで一気に言って、藍はふいに口をつぐんだ。室内をゆっくりと見回す。 「ここは……」 まだ状況が飲み込めていないらしい。 「御影研究所です」 「御影研究所?」 「はい。あのー、じつはですね。これにはいろいろと事情がありまして……」 どう話を切り出そうかと銀生が思案していると、またしても派手な音をたててドアが開いた。当然ながら、碧である。 「あーーーっっ、藍にーちゃん! 目ぇ覚めたんだー」 どかどかと寝台のそばまでやってきて、 「よかったー。すっごい心配したんだぜ。藍にーちゃん、全然知らない人みたいになってて、おれのことも覚えてなくて、もー、どうしようかと……」 「なんの話だ?」 怪訝そうな顔で、藍。 「あれえ、今度はそっち忘れちゃったの」 碧〜、余計なこと言っちゃダメでしょーが。銀生は心の中で嘆息した。 「碧」 うしろから、低い声で昏が「対」の名を呼んだ。 「なんだよ、昏」 「オフィスに行くぞ」 「えーっ、いまから?」 「仕事が溜まっている。わかっているだろう」 「……あ、そっか。おれ、ここんとこサボってたからなー」 またまた、言わなくていいことを……。素直すぎるってのもモンダイだよ。 「ま、仕方ないなー。じゃ、藍にーちゃん。おれ、帰るからっ」 それこそさっきとは別人のように元気に、碧は部屋を出ていった。もしかしたら、あいつにはビタミン剤なんか必要なかったかもしれない。つらつらと銀生がそんなことを考えていると、 「社課長」 氷点に近いオーラ。銀生は思わず、藍の背を支えていた手をはなした。 「……はい?」 「今日は、何年何月何日です」 「えーと、今日は……」 ぼそぼそと日付を言う。藍は片眉を上げて、 「つまり、あれから三週間たっているということですね」 「はあ、まあ、そういうことになるかと……」 「説明していただきましょうか」 「え、説明って……」 まずい。この二十日あまりのあれこれは、こっそり自分だけのヒミツにしようと思っていたのに。 こんなことなら、碧に釘を差しときゃよかったねえ。「八花亭」のチョコレートを全種類買ってやると言えば、きっと二つ返事でオッケーだったはずだから。 うーん、なんとかごまかせないかな。必死に考えてみたが、妙案は浮かばない。まさかもう一度、記憶を「操作」するわけにもいかないし……。 頭を抱える銀生に、藍は冷ややかな視線を投げた。すっ、と寝台から下りて、戸口へと向かう。 「あ、藍さん。どこ行くんです?」 「帰ります」 「じゃ、俺も……」 「おひとりでどうぞ」 「は?」 「おれは、桐野の家に帰りますので」 「えええええーーーーーっっ。らっ……藍さん、どうして……」 「どうして、ですって?」 扉の前で、藍はがばっと襟元を開いた。きめの細かい肌があらわになる。 なんだなんだ。なにが始まるんだ? 期待と不安と興味と恐怖をミックスしたような気持ちで、銀生は藍の胸元を見つめた。点々と、紅い跡。これは、あのときの……。 「三週間前のものが、残っているはずはありませんよね」 「えーと、それは、その、つまり、双方の合意のもとに、ですね……」 「なにが『合意』ですかっ!」 がっこーーーーーんっ。 鈍い音が室内に響いた。うわ。グーだよ。こりゃ予想以上だねえ。銀生は壁にもたれて、唇の血を拭った。 「記憶を失った人間を丸め込んで不埒な行ないをするなど、人倫に反する重大な犯罪行為です! たとえ合意があったとしても、そんなものは事実誤認と動機の錯誤をもって無効とされるべきもので、免責事由にはなりませんっっ!!」 なーんか、軍法会議の意見陳述を聞いてるみたいだよ。あー、でも、やっぱりイイよな。このまっすぐな感情。なによりも興奮する。 「明日より、仕事に戻ります。では」 マニュアル通りに一礼して、藍は部屋を出ていった。 とりあえず、「仕事」はやってくれるんですね。銀生はにんまりと笑った。そりゃまあ、そうか。特務三課には碧がいる。あの人がなによりも大事に思っている碧が。 銀生は側卓の上に乗っていた水差しを手にした。コップに半分ほど水を注ぎ、口をすすぐ。切れた箇所がひりひりと沁みたが、それは銀生にとって心地よいものだった。 さあて。それじゃまあ、俺も帰りますかね。 小さな口呪が囁かれ、銀生の姿は研究所から消えた。 その後。 「藍さ〜ん、そろそろ許してくださいよおー」 銀生の哀願を、藍は無視しつづけていた。 「俺、すごくすごくすごーーーく反省してんですから〜」 万策尽きた銀生が碧に泣きつくのは、藍が職場復帰してから一カ月後のことである。 社銀生と桐野藍の闘いは、今日も続いている。 厄介で賑やかで、騒々しい日常の中で。 ……to be continued? 「夢のあと」へ |