夢の終焉
  by近衛 遼




ACT4

 そんな日々が、さらにしばらく続いた。
 藍は家の中のことを徐々に覚えはじめ、銀生が仕事に行っているあいだに掃除や洗濯などをするようになった。三日前からは夕飯の用意もしている。
 さすがに、手際はいい。四角い部屋を丸く掃く銀生と違って、藍はきちんと隅々まで掃除するし、洗濯物も丁寧にたたむ。当然ながらアイロンはぴしっとかけられていた。
 じつのところ、銀生はあまりにも整然とした部屋は落ち着かないと思っていたのだが、最近になってそれは誤りだと気づいた。居心地が悪かったのは、片付けられた部屋を散らかしてはならないという、強迫観念から来ていた感覚だったらしい。
 現にいま、銀生は座敷でくつろいでいる。食後の茶と、「一文字屋」のせんべいを堪能しつつ。座敷机の上には灰皿が置かれ、その横には読みかけの「健康スクラム・増刊号」。
 ふだんの藍がこれを見たら、きっと眉間にしわを寄せて小言を言うだろう。
『室内で喫煙するのは、やめてください。それからその雑誌、いま読まないんだったら片付けますよ。あ、またせんべいのクズを落として……ちょっと、どいてください。畳の目に入ると厄介ですから。………ああ、もう、歩きながら食べるのはやめなさいっ。何度言ったらわかるんですかっっ!!』
 怒号とともに、がさりとせんべいの袋を取り上げられ、廊下に出される。それが定番だった。が。
「お茶のお代わり、いれてきましょうか」
 すぐそばで洗濯物をたたんでいた藍は、座敷机を見遣って言った。
「そうですねえ。じゃ、お願いします」
 ひょいと湯呑みを差し出すと、藍はそれを受け取って台所へと向かった。しばらくして、あたたかいほうじ茶が再び供された。
 せんべいのクズが落ちようが、座敷で煙草を吸おうが、雑誌やチラシなどをあちこちに置いていようが、いまの藍はなにも言わない。ただ、銀生が席を立っているあいだに、こまめに片付けているようだが。
 いくら散らかしても怒られなくなったのはうれしいが、なんとなくものたりない。ワサビ抜きの寿司というか、カラシの付いてないおでんというか、あるいはショウガもしょうゆもかけてない冷や奴というか……とにかく、なにかが欠けているような気がする。
 ま、でも、ぜいたくな悩みだよ。銀生はほうじ茶をすすって、息をついた。
 この人は昼も夜も、俺の言うことをきいてくれる。俺を信じて、頼って、全部をゆだねて。これ以上はないぐらい、俺を愛してくれているのだ。
 ちらりと、横を見る。白い横顔。おろしたままの長い黒髪。おとなしくて従順な恋人。
 なーんのモンダイもないはずなんだけどねえ。再度、嘆息する。
「どうかしましたか?」
 心配そうに、藍が覗き込む。銀生は笑みを返した。
「いいえ、べつに。なんでもありませんよ」
 腰に手を回して、引き寄せる。なんの抵抗もなく、藍は上体を銀生に預けた。
「それ、あした、俺がやりますよ。だから……」
 洗濯物を脇へ遣り、閨へと誘う。藍は目を伏せて、小さく頷いた。


「いい加減に、なんとかしろ」
 翌朝。銀生が旧独身寮の集会室にあるオフィスに顔を出すと、昏が開口一番にそう言った。
「なんとかって、なによ」
「あの男の記憶を戻せ。もう十分、遊んだはずだ」
 あいかわらず、ヤなこと言うねえ。銀生は眉をひそめた。
「なーんで、俺がわざわざそんなことしなきゃいけないのよ。ほっといたって、そのうち元に戻るのに……」
「それでは碧がもたない」
 やや低い声。こりゃかなり「来て」るかな。そういえば、また碧がいない。藍が記憶を失ってから、しばしば休むようになっていたが、今週はこれでもう三回目だ。
「貴様がやらないなら、俺がやる」
 へーえ。言ってくれるねえ。おまえがあの人の頭ん中、いじるって?
「……本気なの」
 そんなこと、させないよ。
「おまえ、今日はもう、帰んなさいよ」
「銀生!」
「でないとさー、『昏』同士でやり合うことになっちゃうかもしんないよ」
 冗談めかして、真意を告げる。
「この建物はどうせもうボロだからいいとしても、情報部の官舎まるごと吹っ飛んじゃったらコトでしょ。それに冠のおやじさんの公邸とか軍務省の……」
「承知」
 皆まで言わせず、昏。
 さすがに空気を読むのは早かった。素早く印を組む。短い口呪。数瞬ののち、その姿はオフィスから消えていた。
 はいはい。イイ子だね。俺だって、おまえとなんかご免だよ。あの人とだったら、命のやりとりをするのも楽しそうだけど。
 もっともいまのあの人なら、きっと黙って殺されるだろう。愛している。俺のために死んでくれ。そう言いさえすれば。
『はい。銀生さん』
 そのときの表情まで、容易に想像がつく。
 銀生はポケットから煙草を取り出した。火をつけて、深く吸い込む。苦い味と香りがじんわりと染み入ってきた。
「なーんか、つまんないねえ」
 思わず、声が出た。
 そうだ。愛に死ぬのは、つまらない。怒りでも憎しみでもいい。山ほど背負って、生き抜いてもらわないと。
 銀生は煙草をもみ消した。そろそろ、「夢」の終焉ですかね。「天国」なんてものは、どうせ俺にはないんだし。
 安らぐだけのしあわせは、要らない。そんなものは刹那のオアシスに過ぎない。本当にほしいのは。本当に掴みたいのは。
 砂漠の中で交わす口付け。互いの熱と息を与え合い奪い合い、そのうえで朝(あした)を求める貪欲なまでの執着。
 あらためて、あの人がほしいと思った。すべてを手に入れたいまになって。
 銀生は、藍に出会ったころのことを思い出していた。それまで経験したことのない鋭利な感覚。全身があの人を感じた。細胞のひとつひとつが波打って……。
 あのときと同じ感情が、銀生の中に甦ってきた。
 ねえ、藍さん。くださいよ。ほかにはなにも見えなくなるほど、焼け付くような殺意を。
 結局のところ、自分が欲しているのはこれなのだ。
 自嘲ぎみに笑いながら、銀生はオフィスから郊外の自宅へと飛んだ。


 突然目の前に現れた銀生に、藍は持っていた雑巾を取り落とした。どうやら廊下を拭いている最中だったらしい。
「どうしたんです、銀生さん。なにか忘れ物でも……」
「藍さん。愛してます」
 心から言った。
「……なにか、あったんですか?」
 常と違う空気を感じたのか、藍は眉を寄せた。
「ええ」
 うっすらと、銀生は笑った。
「お別れです」
「え……」
 漆黒の瞳が大きく見開かれた。その瞬間。
 銀生は「昏」の力を使った。藍の意識に入り込み、途切れた記憶の回路を繋ぎ直す。ひとつ、またひとつ。
 すべての作業を終えたとき、藍の体はがっくりとその場に崩れた。