夢のあと
  by近衛 遼




 その日も、特務三課のオフィスでは情けない声が流れていた。
「藍さ〜ん、そろそろ許してくださいよー」
 馬鹿野郎。だれが許すものか。
「俺、すごくすごくすごーーーく反省してんですから〜」
 やかましい。本当に反省しているのなら、定時に出てこい。「一文字屋」のせんべい片手に二時間も遅刻してくるような輩の言うことなど、聞く価値もない。
 桐野藍は根深く怒っていた。その怒りはもう半月以上続いている。特務三課のオフィスはさながら、前線基地のような緊張の中にあった。
 事の起こりは、先月はじめ。特務三課課長である社銀生が、自分の「対」でパートナーで同居人(どうしても「同棲」とは言わせてもらえないらしい)で情人である桐野藍に、一服盛ったことから始まる。
 それはいわゆる媚薬の類で、藍との愛の生活をエンジョイしようとした銀生が、ソレ系趣味の人間に隠れファンの多い「謎屋」という店で仕入れてきたものだった。効き目はバツグン。銀生はめくるめく一夜を堪能したのだが、翌朝、藍はそれまでの記憶をすっかり失っていた。
 媚薬の副作用。御影研究所でそう診断されたのち、銀生は別人のようになった藍を自宅に連れ帰った。そして………。(注・その後の詳細は『夢の終焉』を参照のこと)
 ……まったく、こっちがなにも覚えていないからって、二十日以上も好き勝手してくれて。
 藍は参謀室から回ってきた議事録の清書をしながら、ぶつぶつと頭の中で文句を言った。
 昏がいないときを見計らって、さりげなく碧に探りを入れてみたところ(ちなみにワイロは「八花亭」のバナナチョコだった)、どうやら自分は銀生の言うことを信じ込み、頼りきっていたらしい。碧が見る限りでもそうだったのだ。ふたりきりでいたときに、どういうことがあったか容易に想像がつく。
 はっきり残っていた紅い跡。頭ではなく、体が覚えているそのときの感覚。
 悔しい。ほかに言葉が浮かばないぐらい、悔しい。
 こんな目に遭わされて、そう簡単に許してなどやるものか。たとえ、ひざまずいて靴を舐めたって許してやらないぞ。
 藍の思考は果てしなくねじれていく。
「ねえねえ、藍さん。ほらっ、これ。二課から回ってきた不穏分子の名簿の分析。きのう徹夜でやったんですよ〜」
 銀生はぴらぴらと数葉の書類を振った。
「だから、なんです」
「えーっ、だからって言われても……。けっこうタイヘンだったんですから、誉めてくださいよー」
「与えられた仕事をやっただけでしょう。当然のことです」
「そんなあ。がんばったのに〜」
「余計なことを言ってる暇があったら、さっさとそれを二課に届けてきてください。ついでに一課に寄って、夏氏の新体制に関する資料を受け取ってきてくださると助かります」
 てきぱきと指示を出す。いつもながら、これではどちらが上司なのかわからない。
「くれぐれも、鬼塚課長の将棋の誘いに乗ったり、錦織課長の世情談義に捕まったりしないようにしてくださいね」
 ぴしりと釘を差す。銀生はしぶしぶ、席を立った。戸口に向かう前に、金髪の部下のデスクに片手をついて、なにやらひそひそと話しかける。
「社課長」
 すかさず、藍の声。
「勤務中は、職務に関すること以外は厳禁です」
「職務に関することですってばー」
「では、こそこそなさらずに、こちらにも聞こえるようにお願いします」
 氷点下の雰囲気に、碧は首をすくめている。
「銀生。早く行け」
 ぼそりと、黒髪の部下が言った。これ以上この上司にいられては、迷惑だと思ったのかもしれない。
「はいはい、わかりましたよーだ。行けばいいんでしょ、行けば」
 拗ねたような口調で、銀生が出ていく。
 こんな日々が、さらに何日が続いたある日。


「藍にーちゃーん、いる〜?」
 桐野の家の玄関に、碧が現れた。今日は休日。藍は朝から、掃除や洗濯に精を出していた。
「碧! どうしたんだ。……ひとりか?」
 すばやくあたりを窺う。「対」の男はいない。
 めずらしいこともあるものだ。碧の行くところはどこへでもついてきて、いい加減にしろと思うことも度々だったのに。
「うん。昏は藤おばちゃんとこに昼飯買いに行ってんだ」
 なんだ。じゃあ、またすぐここに来るのか。内心舌打ちしつつも、藍は碧を家に上げた。
「久しぶりだなーっ。御影に入ってから、こっちにはぜんぜん来てなかったから」
 そういえば、そうか。銀生と暮らしはじめてから、この家は財団の職員に管理を任せている。藍自身もこの家で寝起きするのは三年ぶりだった。
「あ、おれの部屋、まだそのまんまなんだ」
 懐かしそうに、碧は学び舎時代に自分が使っていた机の前にすわった。学科試験のときは、よく勉強を見てやったっけ。ふと、そんなことを思い出す。
 碧は実技はトップクラスだったが、学科はいつも最下位だった。定期試験のたびに何教科も追試を受けなければならず、そのたびに藍が徹夜で教えたものだった。
『おまえ、その問題はさっきも出てきただろう』
『え、どこどこ』
『これだ。だから、問題文からこの式を導き出すと……』
『えーっ、ちょっと待ってよ、藍にーちゃん。そんなに早く言われてもわかんないよ〜』
 碧は一度覚えたことの定着率が悲しいほど低く、類似問題が出てくるたびに説明しなおさなくてはならなかった。おかげで、藍の方もかなり忍耐強くなったような気がする。
「で、今日はどうしたんだ? 心配事でもあるのか」
 あの昏一族の末裔とのあいだでなにかあったのなら、容赦はしない。私情全開でそう思っていると、
「うん、じつは……」
 碧の青い瞳が、潤んだように見えた。この顔に藍は弱い。思わず抱きしめそうになったとき。
「いまの藍にーちゃん、やだ」
 きっぱりと、碧が言った。
「元の藍にーちゃんがいい」
 元の? 元のって、なんだ。もう記憶は戻ってる。三課の仕事もやっている。このところは表の仕事だけだが、いざというときのために体術や結界術の訓練も欠かしていない。ちゃんとすっかり、元通りになっているはずだが。
「碧、それはどういう……」
「銀生さんとこに、戻ってくれよ」
 なんだって? あの男のところに、だと??
 ばかなことを。あんな真似をしたやつに、どうしておれが自分から……。
「記憶がなかったときの藍にーちゃんもいやだったけど、いまの藍にーちゃんもやだよ。なんか、すごくピリピリしててさー。前の藍にーちゃんだったら怒られてもうれしかったけど、いまはヤだもん」
「碧………」
 山ほど「嫌」を連発されて、藍は固まった。
「このまんまじゃ、にーちゃんと銀生さん、『対』解消しなきゃなんないかもしんないだろ。そんなことになったら、にーちゃん、三課にいられなくなっちゃうじゃんかー」
 三課にいられなくなる。
 あらためて、藍はその事実の重さに直面した。それはまずい。それだけは、なにがなんでも避けなければ。
 しかしいまさら、自分からあの家に帰るわけにもいかない。あの男を許すつもりもさらさらない。だが……。
「……わかった」
 藍は、碧の目をしっかと見つめた。
「社課長が本当に反省して、二度と前回のような行ないをしないと約束するなら……」
「帰ってくれんの?」
「ああ」
「やったーっ。ありがとー、藍にーちゃんっ」
 にっかりと碧が笑った。久々に見る、明るい笑顔。
「あー、なんだか、ほっとしたらハラへっちゃった。じゃ、藍にーちゃん、またあしたっ」
 くるりと踵を返し、玄関へと向かう。あまりのあっけなさに一抹の寂寥を感じつつも、藍は義弟の背を見送った。


 その日の夕刻。
 碧から事の次第を聞いたのか、銀生がやたらと低姿勢で桐野邸にやってきた。
「藍さん、このたびの件につきましては……」
 おそらくあらかじめ考えてきたのだろう。詫び状の朗読のような口上が長々と続く。こんなもの、最後まで聞く必要はない。藍はぴしっと、一枚の紙を銀生の眼前に差し出した。
「これに、署名捺印してください」
「は? えーと、あの、これって……」
「誓約書です」
「誓約書?」
「ここに書かれてある項目すべてを遵守していただければ、共同生活を続行することを了承します」
 まるで、条約の締結のようだ。銀生はその紙を受け取り、五十項目に渡る注意事項にひとつひとつ目を通した。
「これ、もしひとつでも破っちゃったりしたら……」
「共同生活は解消です」
「てことは、今回みたいに?」
「そういうことですね」
「………わかりました。ハンコ押します」
 銀生はすらすらと署名し、ぐぐっ、と力を込めて押印した。
「これで、いいですか?」
「受理します」
 固い口調でそう言って、藍はその書類を懐に仕舞った。


 同日、夜。
 郊外にある銀生の家の奥の間では、ひそやかなやりとりが続いていた。
「藍さん、ここ、いいですか?」
「……いいです」
 しばしの、間。
「じゃあ、これはどうでしょう」
「いい……です」
 さらにしばらく、間。
「次は、こんなのどうかと思うんですけど……」
「……もう、いいです。そんなこと、いちいち訊かないでくださいっ」
 臥し所の中で、藍が叫んだ。
「えーっ、だって、さっきの誓約書の四十六条に、『夜の行為に関してはすべて了承を求めること』ってあったじゃないですかー」
 たしかに、そう書いた。なし崩し的に事を進められたり、寝込みを襲われたり、前回のように薬を盛られたりしては困ると思ったから。だが。
「なにも、ひとつひとつ確認しろなんて言ってません!」
 これではまるっきり、羞恥プレイだ。
「だったら、あの項目は削除ですね〜」
 うれしそうに、銀生。
「……表現を変えます」
「どんなふうに?」
「『夜の行為に関しては、桐野藍の望まない行ないはしてはならない』」
「了解しました。じゃ……続けますよ」
 切れ長の目がきれいに細められ、「夜の行為」は続行された。


 翌日から、また賑やかな日常が特務三課に戻ってきた。
 「一文字屋」のせんべいと煙草とインスタントラーメンを特殊ケースに封印する藍と、「開けてくださいよ〜」と懇願する銀生。黙々と事務処理をこなす昏と、「昼の弁当、なんにしよっかなー」と考える碧。
「碧っ。報告書の用紙に落書きするんじゃないっ! 課長、いつまでも鍵をいじってないで、さっさと参謀室との合同会議に行ってきてください。昏、この書式は今期から変更になっている。やり直せ」
「ごめん〜、藍にーちゃん」
「は〜い、行ってきまーす」
「……承知」
 部下も上司も、それぞれにそれぞれの仕事をして。


 桐野藍と社銀生の戦いは、今日も続いている。
 全五十ヶ条の誓約書とともに。

  ……to be continued?