夢の終焉  by近衛 遼




ACT3

 社銀生にとって、それはまさに夢のような日々だった。いつぞやの初夢にも劣らない、いや、さらに素晴らしき毎日。
 記憶を失った藍は、銀生が教えることをそのまま素直に信じた。当然ながら夜の生活に関してもそうで、「藍さん、いつもこうしてくれたじゃないですか」と言うと、困惑しつつも要求通りにそれを行なった。
 夢というより、天国だよ。
 今日もまた、いそいそと朝食の用意をしながら銀生は思った。ゆうべの○○とか××はサイコーだった。恥じらいと官能のあいだを行き来する様子は絶品で、ついつい行為を長引かせてしまった。いままでしょっちゅう「お預け」を食らってた分を一気に取り返している感がしないでもないが、どうやら藍は、銀生がそばにいないと寝つけないらしいのだ。
 御影研究所から帰ってきて三日目。さすがにこれ以上、連チャンで事を行なうのはマズいかもしれないと思って別々に休もうとしたところ、藍が銀生の夜着の袖を握った。
「すみません。なんだか、不安で……」
 震える肩。すがるような目。
 もうそれだけで、さっきまでの配慮や理性は百万光年の彼方に飛んで行って、またまた思う存分楽しんでしまった。結果、この一週間あまりで件の「営み」がなかったのは一昨日だけだ(注・その一昨日でさえ、……はあったらしい)。
「おはようございます」
 台所に藍が現れた。いくぶん、頼りない足取り。
 もう、藍さんたら、無理して起きてこなくていいのに。きのう、あーんなにガンバっちゃったんだから。
「おはようございます、藍さん」
 銀生はコンロの火を消した。味噌汁完成。あとは卵焼きを焼けばいい。この人好みの、だしで割っただし巻きを。
「もう少し待っててくださいね。いま、だし巻きを作りますから」
「たまには、おれが作ります」
「いいんですよ。あんたはまだ、ここん家に慣れてないでしょうし」
「でも、やりたいんです。なんだか、いまのままじゃお客みたいで……。三課の仕事はまだできませんが、家のことならなんとかなります」
「藍さん……」
 うーん、殊勝だねえ。抱きしめたいぐらい、かわいいよ。
 銀生はボウルと卵を差し出した。
「じゃ、お願いします。塩はここ。だしは味噌汁を作るときに使った昆布だしがこっちの瓶に入ってますんで」
 そのあたりの手順を銀生に厳しく指導したのは藍なのだが、いまの彼はまったくそれを覚えていない。卵を受け取り、頷く。
 真剣な面持ちで、藍は調理を始めた。卵焼き器をあたため、油を薄くひく。よく融いた卵を流し入れ、表面がぶつぶつとしてきたところで折り返し、さらにまた卵を流して同じ作業を繰り返す。
 へえ、たいしたモンだね。銀生は感心した。じつに手際よく、卵焼きが出来上がっていく。記憶はなくても、こういうものは体が覚えているのかもしれない。
 そういえば、アレもそうだったっけ。御影研究所から戻ってきた日の夜を思い出す。
 精神的には、「はじめて」のはずだった。藍はそれまでの一切を忘れ、男同士の行為についてなんの知識もなかったのだから。それなのに。
 触れる場所すべてに明確な反応があり、最終的な行為に関してもさほど抵抗なく進行することができた。これはもう、意識下で藍の体が銀生を「知って」いたとしか思えない。
 事が終わったあと、当の藍も戸惑っていた。なぜ自分が応えてしまったのか、理解できなくて。
「だから、言ったでしょ」
 余韻を楽しみながら、銀生は囁いた。
「俺たちは、愛し合ってるんだって」
「……はい」
 安心したような顔。そのまま、朝まで藍は銀生の腕の中にいた。
 あのときも感動したねえ。なにしろいつもの藍さんなら、さっさと背中向けて寝ちゃったり、自分の部屋に帰ったり、イロイロ責めたあとなんかは死んだみたいに倒れ込んだりで、しみじみと事後の睦言を交わすなんてことはまったくなかったから。
「できました」
 藍がだし巻きを皿に乗せた。
 あれえ、おかしいな。皿はまだ用意してなかったはずだけど。銀生が怪訝に思っていると、
「もしかしてこの皿、使ってはいけなかったんですか?」
 しまったという顔で、藍は言った。
「適当に、水屋にあったのを出してしまったんですけど……」
「え、あ、いいえ。いいんですよ。ありがとうございます」
 じつは内心、銀生は驚いていた。その皿は、藍が卵焼きを作るときに、いつも使っていたものだったのだ。
 御影研究所の研究員は、「日にち薬」だと言っていた。とすれば、いずれ元の藍に戻る日が来るのだろう。それがいつのことかは、まったくわからないが。
 まあ、それまでこの「天国」を楽しむのもいい。この人の「全部」を手にできる生活を。
 銀生は愛しい人の作っただし巻きを食べながら、そんなことを考えていた。


「で、どうするつもりだ」
 数日後。
 銀生は特務三課のオフィスで、黒髪の部下に訊かれた。昼休み。金髪の部下は藤食堂に弁当を買いに行っている。
「どうって、なにがよ」
 激辛ハバネロ(唐辛子の一種)ラーメンをもぐもぐと咀嚼していた銀生は、ちらりと横目で旧知の部下を見遣った。
「あの男のことだ。このまま、飼い続けるのか」
「……『飼う』って、おまえ、そりゃ言い過ぎでしょ」
「では、ほかになんと?」
 片頬だけの笑みを浮かべて、昏。
「俺はどちらでもいい。現状でも支障はないからな」
「ふーん。じゃ、なんでそんなこと訊くのよ」
 箸を置いて、銀生は言った。
「………」
 しばしの沈黙。
「ほーんと、おまえって碧がかわいいのね〜」
 どうせ、あいつが泣きついたんだろうねえ。それぐらい視なくたってわかる。
 藍が記憶をなくして、もう半月。碧にはそろそろ限界だろう。これといった治療法があるわけではない。もしかしたら、一生このままかも。そんな状態に長く耐えられるやつじゃない。
「まあ、せいぜい慰めてやってよ。俺は藍さんだけで手いっぱいだから」
 ぴらぴらと手を振ると、昏は露骨に不快な表情をして、オフィスを出ていった。外で碧を待つつもりらしい。
 しばらくして、わやわやとした話し声が聞こえた。碧が昏になにか文句を言っている。一直線な「気」がこちらに向いた。あらら、直談判に来るつもりかな。銀生がそう思ったとき。
 ぱん、と、結界が張られた。封印結界。その後、空間が瞬時に歪んだ。どうやら、昏が碧を移動の術でべつの場所に連れていったようだ。
 あーあ、今日はもう、あいつらは帰ってこないね。
 ふたたびラーメンをすすりながら、銀生は思った。きっといまごろ、昏は碧を懇切丁寧に「慰めて」いるだろう。森の中の家で、何重にも結界を張って。
 未処理の書類がデスクに山積みになってるが、それはあしたに持ち越しだ。参謀室や経理課や総務の連中から督促が来るまでに、俺も引き上げよっと。
 ラーメン鉢を手早く洗って、水きり籠に置く。そして、数分後。
 特務三課の課長である社銀生は、郊外の自宅に向かって北町通りの路地を歩いていた。手には「こだわりウォーカー・和の国編」で紹介された名店の逸品の数々。
「藍さん、喜んでくれるかな〜」
 ほくほく顔で帰路に着く。これできっと今夜も……。
 不埒な思いは、ハバネロラーメンよりも刺激的に銀生の情熱を燃え上がらせていた。