| 夢の終焉 by近衛 遼 ACT2 都に戻ったのは、もう夕刻だった。 「藍にーちゃんっ!!」 玄関の前で待っていた碧が、ただでさえ大きな目をまん丸にして駆け寄ってきた。 「ほんとーに、なにも覚えてないの?」 信じられないといった顔。事情は先刻、遠話で知らせたが、碧には把握できていないらしい。一方の昏は書類の束を銀生に差し出し、 「今日付けで確認印と受領印の要るものだ。桐野主任の管轄だが、しばらく休職するとなれば、貴様に判を押してもらわねばならない」 淡々と告げる。 さすがに飲み込みが早いねえ。ま、こいつは俺と同調透視ができるから、御影研究所での検査結果などもすでに承知しているはずだ。記憶が戻るまで藍を休職扱いにすることも、さっきの遠話で連絡済み。きっとこの紙束の中に、その手続きに必要な書類も入っているだろう。 「明朝までにやってくれ」 「え〜っ、俺、今日は疲れてんのよ? 二、三日、待ってよ」 「駄目だ。明日は明日で、また決裁の必要な書類が回ってくる」 なーんか、ふだんの藍さんを彷彿とさせるねえ。こと職務に関して、このふたりはよく似ている。いや、碧をいちばん大事に思ってるところも同じか。相性はサイアクだけど、それってよーするに同族嫌悪よね。 「本来は今日、各部に提出するはずだった書類だ。事情を説明して、期限を明朝まで延ばしてもらった。これ以上の遅延は許されない」 はいはい。わかりましたよ。こいつ、絶対そのうち水木に「お局二号」って呼ばれるよ。 心の中でぶうたれながら、銀生は書類を受け取った。 「ねえねえ、藍にーちゃん。おれ、きのうの弁当んとき、からあげ床に落っことして、それ拾って食ったの藍にーちゃんに見つかって、すっごい怒られたじゃん。それも覚えてない?」 碧が必死になって、あれこれ話しかけている。主に自分が叱られたときのことを。藍は困ったような顔で、それを聞いていた。 一応、藍には特務三課の仕事内容や碧たちのことを説明してある。どこまで理解したかは判然としないが、自分に義理とはいえ弟がいて、同じ職場で働いていることを喜んでいるようだった。 「『おれはおまえを、そんな卑しいやつに育てた覚えはないっ!』とか言ってさあー」 藍の口調を真似て、碧。それでも藍が答えないと、「うーん」と首をひねって、 「んじゃ、あれは? ほらほら、おれがゴキブリを靴で叩いて潰して、そのままそれ忘れてて部屋ん中歩き回って、床に点々とゴキブリの残骸が……」 ……インパクトありすぎだよ、それ。ほーら、藍さん、引いちゃってるじゃないの。 「碧〜。藍さんは繊細なんだから、そんな話しちゃダメだよー」 「へっ……せんさい??」 思い切り平仮名な発音で碧が言った。昏は小さくため息を漏らし、ちろりと上司ふたりを見た。 「では、俺たちは帰る」 「ええっ、だって、昏……」 抗議しようとした碧の肩を抱き、すばやく口付ける。 「なっ……な、なにすんだよっ」 碧が顔を真っ赤にして、横に飛びのいた。 「おまえなぁっ、こんなときに……」 「これで、はっきりした」 まるで何事もなかったかのように、昏は言った。 「え、なにが」 「桐野主任は、本当に記憶を失っている」 たしかに、ね。 銀生はにんまりと笑った。いつもの藍さんなら、目の前でこいつらのキスシーンなんか見せられたら、頭から湯気出して怒るだろうからねえ。でなきゃ、永久凍土並みのオーラ全開で固まるかも。 それが、いまの藍はというと。ただびっくりしたような顔で、ふたりを見ているだけだ。 「行くぞ。俺たちがここにいても、意味はない」 すたすたと歩き出す。碧はまだしばらくなにか考えていたが、二間ほど離れたところで立ち止まった昏に名前を呼ばれると、しぶしぶ帰って行った。 「なんか、騒がしくてすみませんねえ」 銀生は、碧たちの背中を見送っている藍にそう言った。 「あいつらも、あんたのことが心配なんですよ」 「銀生さん……」 「はい?」 「おれの弟は、あの昏という青年と……」 「ああ、言ってませんでしたっけ」 それに関しては、わざと言わなかった。予備知識なしであいつらのことを知った方が、男同士のカンケイを納得させられると思ったから。 「どうもねー、初恋で相思相愛ってカンジで。いま、一緒に住んでんですよ」 にっこり笑って、続ける。 「俺たちみたいに」 「そう……ですか」 薄闇の中、碧の姿が見えなくなった。藍はまだ、その方向を見つめている。切ない横顔。 「藍さん」 そっと肩に手を回す。 「さ、入りましょう」 玄関へといざなう。藍は小さく頷いた。 夕飯も銀生が作った。もともと今日は食事当番だったし、そうでなかったとしても、いまの藍にはこの家のことはほとんどわからない。 『調理器具や調味料は、すぐに取り出せる場所にまとめておかないと、作業がはかどりません!』 そう言って、あちこちバラバラに置いてあった包丁やまな板や鍋やボウルなどを並べ直し、調味料用の棚まで手作りしたことも忘れている。 「料理、上手なんですね」 台所の隅から銀生が夕飯の用意をしているのを見て、藍がしみじみと言った。 「朝の食事も、なんだか気を遣ってもらって……」 「あんたと暮らし始めてから、うまくなったんですよ」 これは本当。なにしろ藍は、共同生活(どうしても「同棲」とは言いたくないらしい)を営むには家事の分担は必須条件だと主張し、毎月、仕事のスケジュールをにらみつつ炊事や洗濯や掃除などの当番表を作成していたのだ。必然的に、ひと通りのことができるようになった。 それに今朝はとくに、ゆうべのあれこれがあったから、ゴマをすっておこうと気合いを入れた。できればギリギリまで寝ていたかったが、早朝から「豆の屋」に豆腐を買いにも行ったし。 「だれかと一緒に食べる食事ってのは、特別なものでしょ」 味噌を溶かしつつ、言う。 「藍さんは、俺のトクベツな人だから」 いつもだったら冷ややかな視線ひとつで黙殺されるか、肘鉄でも食らわされる台詞だが、いまならいくらでも言える。 「藍さん」 すっ、と、小皿を差し出す。 「味噌汁の味見、お願いします」 「え、あ、はい」 藍はぎこちない手つきで小皿を受け取った。こくりとひと口飲んで、 「おいしいです。とても」 あー、なーんか、やっぱりイイ。この雰囲気なら、あっちもすんなりOKだよな。銀生の思考はすでに蒲団の中へと飛んでいる。 「ごはんも炊けたみたいですし、そろそろ食べましょうか」 「はい。いただきます」 藍は自分の膳を手に、にっこりと笑った。 そして、夜も更けて。 夜具の上で、銀生はひとつひとつ、その行為について説明した。昨夜の跡を丹念に辿りながら。 「ここも。ほら、ここも……ね?」 ほとんど羞恥プレイである。それでも藍は、自分の体に歴然と残る紅い標に銀生との絆を信じたのか、そのすべてを受け入れた。 |