夢の終焉
  by近衛 遼




ACT1

 清々しい朝。社銀生は鼻唄まじりに朝食を作っていた。
 「壺ノ屋」の漬物も「海鮮屋」の焼き海苔も、なんと「豆の屋」の絹こし豆腐まで揃っている。さらにはこうじ味噌の味噌汁に、ちょっと固めに炊けた高級ブランド米のごはん。お茶は彗の国産のかりがね、梅干しは南原地方の特産品、トドメは海南産のアジのひらき。これでどうだ、と言いたくなるほどカンペキなメニューである。
 そろそろ、あの人を起こしに行くかな。ゆうべ、だーいぶムリさせちゃったから、まだ寝てるかもしれないけど。
 じつは昨夜、銀生はとある薬を自分の「対」でパートナーで同居人(いい加減に「同棲」と言わせてほしいものだが)でコイビトである桐野藍の食事の中にこっそりと混ぜたのだ。それはいわゆる媚薬の類で、ソレ系趣味の人間に隠れファンも多いという「謎屋」という店で仕入れてきた。
『ま、いっぺん試してみなって。すっげえ効くぜ〜』
 元同僚の古参御影、榊剛のお墨付きのその薬は、たしかによく効いた。なにしろ、あの藍さんが……………(以下、自粛)。
 銀生の目尻がへらりと下がる。うんうん、たまには、あーゆーのもなくっちゃねえ。そりゃ、きりきりと怒ってるのとか、にらみつけてる顔とかもイイけど。
 銀生はうきうきと、座敷に向かった。「おはようのキス」で起こそうか、それとも、まだ薬が効いてたら……。
 とことん不埒な男は、からりと襖を開けた。
「藍さーん、ごはん、できました………よ?」
 その場の異様な雰囲気に、銀生は固まった。
 いや、異様というより、あまりにも違いすぎる「気」に、意表を突かれたというべきか。
 夜具の上では、愛しい人がぼんやりとこちらを見たまま座っていた。
「あの……藍さん?」
「……らん?」
 小首をかしげて、呟く。
「それ……おれの名前ですか」
「はあ?」
 なんの冗談だ。ゆうべの仕返しにしては、いつもとだいぶ趣向が異なる。銀生はそろそろと枕辺に近づいた。
「どうしたんですか、藍さん。きのうのこと、怒ってるんなら謝ります。お詫びに、今朝はあんたの好きなものばっかり用意しましたから。『豆の屋』の絹こし豆腐も朝イチで買ってきたんですよ〜」
 限定百二十個の逸品。これはかなり点数を稼げると思っていたのだが、藍ははっとした表情で、
「好きなものって……じゃあ、あなたはおれのこと、ご存じなんですね?」
「藍さん……」
 銀生は絶句した。これはどうも、シャレではないらしい。
 目を閉じる。封じた力を呼び起こす。双眸が深い青に変わった。
「あ……」
 藍が目を見開いた。まじまじと銀生を見つめている。
 やはり、そうか。銀生は納得した。
 なにも隠すもののない心。そこにあったのは、昨夜までの記憶をすべて失った、ひとりの青年の不安と怯えだった。


 原因は、すぐにわかった。朝食のあと、そのまま移動の術を使って御影研究所まで飛んだのだ。そこでの検査の結果、血液中から記憶中枢に作用する物質が検出された。
「得体の知れないものを、安易に投与するからです」
 御影研究所の研究員、柊宮居(ひいらぎ みやい)は言った。
「しかもアルコールと同時になんて、はっきり言って、記憶障害ぐらいで済んでよかったですよ」
「あのー、それで……治りますよね?」
 思い切り下手に出て、訊いてみた。宮居はぱらぱらとカルテをめくり、
「まあ、桐野さんは薬物毒物の耐性訓練も受けたことがあるみたいですし、一過性のものだとは思いますが、ものがものですからねえ」
「へっ、えーと、モノっていうと……」
「原材料が、どうも槐の国の薬草らしいです。天峰連山に自生している薬草となると、われわれもまだ完全には把握できていません。それほど強い作用があるわけではないようですが、持続性のあるものみたいで」
「てことは、しばらくはあのままってことですか」
「そうですね。日にち薬という感じでしょうか」
 宮居はカルテを閉じた。
「一応、安定剤とビタミン剤を処方しておきます。あまり刺激を与えないようにしてくださいね。不安が高じて、パニック障害のような症状が出る可能性もありますので」
「はあ、気をつけます」
 薬を受け取って、銀生はとぼとぼと病室に戻った。まいったな。まさか、こんなことになるなんて。剛のやつは副作用の話はしていなかったが、こんなヤバイ薬は即刻販売停止にさせなくては。
 密かに「謎屋」撲滅を決意しつつ、房に入る。
「銀生さん……」
 寝台の上で、藍は心配そうにこちらを見ていた。
 うわ。なんか、すごくいいかも。
 黒くつややかな瞳。もの言いたげに薄く開いた唇。こんな顔、いままで見たことがない。
「どうしました、藍さん」
 やさしく、このうえなくやさしく言う。藍はじっと銀生を見つめたまま、
「おれ……どうなったんでしょう。お医者さまは、なんて……」
「一過性の、記憶障害だそうです」
 端的に告げた。もちろん、その原因となったであろう薬のことは言わない。言う必要も、ない。
「一過性?」
「そう。だからね、なにも心配することないですよ」
 にっこりと笑って、肩を抱く。藍の体がぴくりと震えた。
 んー。これもいいねえ。こーんなピュアな反応、はじめてだよ。
 そう思ったことは口にせず、銀生は藍の顔を覗き込んだ。
「すぐに、思い出しますよ。俺たち、愛し合ってるんですから」
「愛し合ってって……あの、男同士で、ですか?」
 あー、もう、ダメ。このままここで押し倒したい。でも、やっぱ、ガマンしなくちゃね。なにしろここは御影研究所。部屋には監視モニターが設置してあるはずだから。
「はい。男同士で、です」
 きっぱりとそう言うと、藍は戸惑ったように視線を揺らせた。
「あの、でも、おれ、そういうのって……」
「いいんですよ。ゆっくり、思い出しましょうね」
 つい、と、あごに指をかける。
「俺が、思い出させてあげますから」
 掠めるように口付けた。これぐらいは、いいだろう。モニターの向こうの皆さんも、さっきの検査のときに自分たちの関係ぐらい気づいていただろうし。
「銀生さん……」
 潤んだ瞳で、藍。
「じゃ、帰りましょうか」
「え……」
「俺たちの愛の巣に」
 わざとそう言うと、藍は頬を染めて下を向いた。
 さあて。今夜は「初夜」ですからね。アレとかコレとかソレとか、ぜーんぶ教えてあげますよ。
 内心、小躍りしつつ、銀生は藍の腕を取った。