本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT9 桐野事務長のとりあえず平穏な日々

 平日は、これといって何事もなく過ぎていった。銀生は顔が合えばあいさつはするが、とくにそれ以上の話はしてこない。飲みに誘うことも、桐野の家にやってくることもなかった。
 あまりにも何事もないので、かえって拍子抜けするぐらいだ。が、油断はできない。もしかしたら週末に押しかけてくるかもしれない。そうなったら、そのときは仕方がない。なるべく早く事が済むよう、おとなしく付き合うしかない。
 あんなことのせいで欠勤なんて、もうご免だ。翌日はなんとか出勤できたが、しばらくは後遺症に悩まされた。次はせめてノーマルなパターンで終わってほしい。
 そこまで考えて、藍は自己嫌悪に陥った。
 「ノーマル」だと? 男同士の交渉自体、すでにかなりノーマルじゃないぞ。おれはいったい、なにを言ってるんだ。
 こめかみに手を宛てていると、横に人影が立った。職員のだれかかと思って顔を上げると、そこには義弟の斎がいた。
「あ……な、なんだ。なにか用か?」
 日曜日に銀生との現場を見られて以来、藍は斎と会うのを避けていた。斎もなんとなく気まずいのか、極力事務局には来ないようにしていたようだ。
「あの、その……お加減はいかがですか」
「え、加減?」
「月曜日、休んだでしょう。お見舞いに行こうかとも思ったんですが、お邪魔してもいけないし……」
 やっぱり、誤解している。こっちとしては「邪魔」してほしかった。そうすれば、ソファーでの一件は回避できたかもしれない。
「す……すみません。事務局でこんな話……これ、よかったら晩にでも召し上がってください」
 すっと差し出されたのは、風呂敷に包まれた重箱だった。
「藍兄さん、ひとりだとあんまり食べないでしょう。出来合いのものばかりだと飽きると思って、いろいろ作ってみたんです」
「作ったって、寮でか?」
 寮には、簡易コンロと温め用のレンジしかなかったはずだが。
「いいえ。食堂のおばさんに頼んだら、中に入らせてもらえたので」
 食堂で調理を担当しているのは、藤という名前の中年女性で、女手ひとつで三人の子供を育て上げたという。昔風に言うと「肝っ玉かあさん」といったところか。その藤が、昼休みの終わったあとに厨房を使わせてくれたらしい。
「時間がなかったんで、たいしたものはできませんでしたが」
「……すまん。心配かけたな」
「いいえ。じゃ、おれはこれで」
「ああ。……あ、ちょっと待て」
「はい?」
「その……碧のことなんだが」
 機嫌よくやっていると聞いてはいたが、やはり気になる。
「元気ですよ。数学の小テストもそこそこ取れてたみたいです。ただ、英語はちょっと……夏休みに補習があるかもしれません。社会科や理科はギリギリセーフってとこでしょうね」
 ずいぶんくわしい。これも寮に住んでいるからなのだろうか。各教科の教師と情報交換しているのかもしれない。
 斎に関しては、寮に入ったのはプラスに作用したのだろう。気のせいか、以前より積極的になったようだし。
「そうか。まあ、一科目ぐらいは大目に見るしかないな。また、いろいろ教えてくれ」
「はい。でも、そんなことなら社先生もご存じで……」
 言いかけて、斎は口をつぐんだ。まずいと思ったらしい。
「ほ……ほんとにすみません。失礼します!」
 ぺこりと礼をして、斎はあたふたと事務局を出ていった。
 まいったな。あそこまで意識されると、斎の口からあの男のことが漏れるかもしれない。もちろん斎がそれを言い触らすような人間でないことはわかっているが、だれかがカマをかけたら簡単に引っかかりそうだ。職員寮の住人には、あの男を筆頭に曲モノが多い。うっかりしたことを言わなければいいが。
 あれこれ考えているうちに、終業時間になった。仕事はまだ少し残っていたが、明日は休日。持ち帰ってやろう。斎の作った重箱弁当も、ゆっくり味わいたい。
「あ、事務長。おつかれさまでしたー」
 宇津木の明るい声(最近、藍が細かいことを言わなくなったので、みんな機嫌よく仕事をしている)に送られて、藍は家路についた。


 玄関に入る前に、瞬時、周囲を窺う。これはもう帰宅時の癖になっていた。あの男がどこからか出てくるのではないか。ここ数日はそんなことはなかったが、明日は休日。もしかしたらと思う。
 とりあえず、だれもいない。中に入って鍵を閉めたとき、いきなり廊下の電気が点いた。
「おかえりなさい、藍さん」
 いくらか覚悟していたとはいえ、脈拍が一気に上がった。落ち着け。落ち着くんだ、藍。ここで取り乱してはならない。
 ゆっくりと息を吸う。それをまた、ゆっくりと吐き出して。
「こんばんは。……銀生さん」
 なんとか声を出すことができた。
「へえ。うれしいですねえ。あんたが自分から俺の名前を呼んでくれるなんて」
 にんまりと笑って、語を繋ぐ。
「思ったより早かったですね。俺もさっき来たとこで、まだ晩飯の用意もしてないんですよ」
 例によって、勝手になにか作ろうと思っていたようだ。よし。ここは精一杯協力してやろう。藍はいままでシミュレートしてきた場面をひとつひとつ思い出しながら、リビングへと入った。テーブルの上にスーパーの袋が見える。
「なにか、買ってきたんですか」
「ええ、まあ。酒とつまみぐらいのモンですけど。藍さん、『豆の屋』の絹こし豆腐って食べたことあります? 前に理事長が言ってたんですけど、ものすごーく美味しいんですって」
 それなら、以前、斎から聞いたことがある。なんでも一日限定百二十個の品だそうで、予約をしてもなかなか手に入らないという話だ。
「いいえ。ありませんが」
「だったら、ごちそうしますよ。ちょっとコネがあって、二丁買ってきましたから」
「それは……ありがとうございます」
 どんなコネなのか、聞くのが恐い。とりあえずその点にはコメントせず、礼だけを言った。
「少々、お待ちください。着替えてきますので」
 藍は荷物を持って寝室に入った。付いてくるかな。そう思ったが、銀生は台所でなにやらごそごそとしている。藍は手早く体を拭いて、着替えた。洗濯物を洗濯機に放りこんでからリビングに戻ると、銀生はテーブルの上に冷酒と冷や奴を並べていた。
「はいはい、どーぞ。乾杯しましょうよ」
 銀生は切り子のグラスを差し出した。
「俺と藍さんの愛のために」
 なにを言う。欲望剥き出しで襲ってきたくせに。
 むろん、その怒りは心の裏側に隠した。藍はグラスを受け取り、
「いただきます」
 小さな音をたてて、グラスが合わさる。銀生はそれを一気にあおった。
「んー、すっきりしますねえ」
 たしかに、さらさらとした飲みやすい酒だ。
「さあさあ、次は『豆の屋』の特選豆腐ですよ」
 銀生は嬉々として言った。薬味はネギとショウガとミョウガ。さっき銀生が台所に立っていたのは、これらを刻むためだったのか。
 豆腐もじつに美味だった。朝早くから並んででも買いに来る客がいるのも頷ける。
 そのあとも和やかに夕飯の時間は流れた。藍は斎が作った弁当を広げ、
「よかったら、どうぞ。このあいだはご一緒できませんでしたが」
 思い切り言いにくい台詞だったが、どうにか言えた。銀生はくすりと思い出し笑いをして、
「そうでしたねえ。あのときは、ね」
 そっと藍の手を取る。ちなみに、ふたりは並んですわっていた。
「ところで、ねえ、藍さん」
 顔を近づけて、銀生は訊いた。藍は身を引くこともせず、
「はい。なんでしょう」
「鍵、取り替えなかったんですね」
「え?」
「玄関の鍵ですよ。てっきり取り替えて、補助キーとか防犯カメラとかセンサーとかイロイロ設置したと思ってたら、そんまんまなんですもん。びっくりしちゃいました」
 そんなものが、なんになる。
 いつだったか、テレビの防犯番組で元窃盗の常習犯だったという男が言っていた。「入ろうとさえ思えば、どんな家にでも入れる。ただ、侵入のリスクと実入りを秤にかけて、やるかやらないか決めるだけだ」と。
 その観点に立てば、この男は「やろう」と思えばなんだってやる。だから「やりたくない」と思わせるしかないのだ。
「どうして、替えなかったんです?」
「……必要ありませんから」
 それだけを告げた。余計なことを言って、足元をすくわれては困る。
「そうですか」
 銀生の唇が近づく。当然ながら、藍は抗わなかった。ソファーに倒される。口付けが深くなる。
 このまま、始まってしまうのだろうか。できれば寝室に移動したいが。
 ベッドに行きたいと言ってみようか。そう思ったとき。
 ふっ、と銀生の体が離れた。切れ長の目が藍を見下ろす。
「いまの言葉、忘れませんよ」
「え?」
「鍵。一生、替えないでくださいね」
「銀生さん……」
「おやすなさい。斎センセの力作は、また今度」
 投げキッスをして、出ていく。軽い足取り。前のときのように、玄関の閉まる音と鍵の音が聞こえた。
 なんだったんだ、いったい。あの男は、なんのためにここに来たんだ。
 少し残った冷酒と、手付かずの重箱を前に、藍の頭は混乱していた。