本日モ青春ナリ〜御影学園日記〜 by 近衛 遼 ACT10 桐野家の招かれざる同居人 その週末。藍は落ち着かなかった。 先夜、銀生は口付けひとつで帰っていったが、留守中に他人の家に上がり込むような男である。いつまた勝手にやってくるか、わかったものではない。最初のとき、それこそ夜中でも早朝でも真っ昼間でも、あの男はしたい放題のことをやったのだ。 心の準備はできているはずだった。しかし、当てもなく待つ時間というのは、予想以上に気疲れした。持ち帰った仕事も半分ほどしかできず、休み明け、藍はどんよりとした面持ちで学校に向かった。 ブルーというよりグレーな気分で学校に着くと、事務局の前で銀生がなにやら書類を受け取っていた。 「じゃ、来週中に提出したらいいのね」 中にいる職員になにやら確認している。めずらしいこともあるものだ。学校の備品や、果ては教室まで破損したときにも、まともに始末書ひとつ書いたことがない男が。 過去のあれこれを思い出していると、銀生はくるりとこちらを向いた。書類をたたんで、近づいてくる。なにか言われるだろうか。そう思っていたら、 「おはようございます、桐野事務長」 にこやかにあいさつをされ、一瞬、言葉が出なかった。なんだ、これは。こんな顔、見たことないぞ。 藍は背筋が寒くなるのを感じた。返事をしなければならないことはわかっているのだが、声が出ない。こんなことは、はじめてだった。散々な目に遭ったときでさえ、怒りや悔しさや憎しみは感じたが、こんな感覚を覚えたことはない。 「どうしました? ……藍さん」 後半は囁くような声だった。藍はぐっとこぶしを握った。 「おはようございます。少し、考え事をしておりまして……失礼しました」 表情を作る余裕はなかった。きっちりと礼をする。銀生はくすりと笑い、 「やだなあ。そんな大袈裟な。じゃ、俺はこれで」 ぴらぴらと手を振って、階段を上っていく。その姿は、もういつもの銀生だった。 わからない。なぜ、あんな気分になったんだろう。間違いなく、銀生は笑っていた。それなのに、全身に電気が走ったようになって動けなかった。 「事務長、顔色が真っ青ですよ」 横から宇津木が声をかけた。 「なんか、先週より調子悪そうですね」 「え……そうかな。すまん」 「先週より」ということは、いまの自分は、あの男に関係を強要されたあとよりもひどい状態に見えるのか。 藍は自嘲した。情けない。いままでとは違う展開になって、自分の考えていたルートを外れたからって、なにもここまで神経質になることはないのに。 「ちょっと風邪気味でな。でも大丈夫だ。今日は残りの書類を片づけてしまわないと」 「ああ、それでしたら、こっちでやっときますよ。書式は全部同じですし、手の空いてるやつらにも手伝わせます」 「そうか。じゃ、頼む」 この際、任すことにした。いまは少し休みたい。むろん仕事中なので、眠ったり横になったりはできないが、精神的なゆとりがほしかった。 その週も、ごくごく平穏に過ぎていった。そして、週末。仕事を終えて、藍は帰宅した。 今度は、寝室の中にいるかもしれない。あるいは浴室かも。 あの男が潜んでいる場所を想定しつつ、玄関を開ける。中は暗かった。いきなり横から手が出てくる可能性も考えつつ、先に進む。まるでサスペンスかホラー映画の一場面の気分だ。 リビングまで来たが、だれもいなかった。台所、寝室、浴室、トイレ。斎や碧が使っていた部屋や、亡くなった両親の部屋まで見て回ったが、人影はない。 藍は頭を振った。今度はなんだ。なにを考えている。 ゆっくりとした足取りでリビングまで戻ってきたとき。 いきなり電話が鳴った。 「……!」 思わず、背後を振り返ってしまった。深呼吸をしてから、受話器を取る。 「はい、桐野です」 『藍さん?』 耳元で、あの男の声がした。まるで房事の最中のような声。 『すみません。今夜は伺えません』 「え、あの、それは……」 『だって、藍さん。待ってるんでしょ? 俺のこと』 なんという言い草だ。藍は受話器を握り締めた。 「……はい。残念です」 来ないなら、その方がいい。 『そのかわり、あした行きます。朝十時ぐらいにはそちらに着くと思いますので、よろしくお願いしますね』 朝十時。やはり、非常識な男だ。 「わかりました。お待ちしています」 『じゃ、そーゆーことで、おやすみなさい』 カチ、と小さな音がして電話が切れた。藍はしばらく、その場に佇んでいた。 当然ながら、熟睡などできなかった。夜中に何度も夢を見て目を覚まして。 午前五時。藍は寝室を出た。寝汗が肌にまとわりついて気持ちが悪い。ざっとシャワーを浴びて、汗を流した。 外はすでに明るくなっている。いまから横になっても、もう眠れまい。藍は新聞を持ってリビングに移動した。 銀生は十時に来ると言っていた。それまでに掃除をして洗濯をして。そして、寝室を整えておかなくては。 なんとなく、滑稽だ。こっちはいわゆる「被害者」なのに、「加害者」であるあの男のために諸々の準備をしているなんて。 駄目だ。深く考えると、また堂々巡りになってしまう。藍は立ち上がり、コーヒーメーカーをセットした。たっぷり二杯分のコーヒーをいれて、大きなマグカップに注ぐ。 ゆっくりとそれを飲みながら、藍は朝のひとときを過ごした。 十時を五分ばかり過ぎたとき、インターホンが鳴った。 鍵を持っているくせに。勝手に入ってこい。いささか見当違いな考えを胸に、藍は玄関に出た。 「おはようご……」 言いかけて、思わず口ごもる。 「え、あの、なにか……」 そこにいたのは、「ネコさんマークの引越屋」と書かれた作業服を着た男たちだった。 「おはようございますっ。お荷物の搬入に参りました。いまから作業をいたします。お住まいに疵をつけぬよう、細心の注意を払いますので、どうぞご安心ください!」 やたらと元気な声で言ったのは、その班のリーダーらしい三十過ぎぐらいの男だ。 「よろしくお願いします!」 うしろにいた二十代前半と思われる二人が、唱和する。三人は素早く作業を開始した。 「よ……よろしくと言われても、いったいなんのことですか。うちは引っ越しなんて頼んでいないし……」 「え、しかし、たしかに引っ越し先はこちらになっていますよ。『北町通り三丁目三番七号』。『三三七拍子』みたいで縁起のいいお宅だなあって、みんなで話をしながら来たんです」 リーダーが伝票を見ながら、言った。 「それ、貸してくださいっ」 引ったくるようにして、伝票を見る。そこに書かれてあった依頼主の名は。 「なっ……なんで、この男が……」 「あー、ちょっと遅くなっちゃいましたねえ」 のほほんとした声が、「ネコさんマークの引越屋」のトラックの横から聞こえた。 「遅刻してすみません、藍さん。独り暮しと言ってもけっこう荷物があったもんで、積み込むのに時間がかかっちゃったんですよ〜」 銀生は作業員に金封を渡した。 「じゃ、お願いしますね。俺の部屋は二階の東の角ですから」 すらすらと指示を出す。 「どういうことです、社先生。勝手に人の家に荷物を運んできて……」 「見ての通りですよ。引っ越しです」 「だから、なぜあなたがここに引っ越してくるんです」 「いやあ、じつは、急に職員寮に二人、入ってくることになって、部屋が足りなくなったんですよ。で、俺の部屋がいちばん広いんで、そこを相部屋にして使うことになって」 なんでも、その二人が借りていたアパートが火事で半焼して、本人たちの部屋は無事だったのだが、とても住める状態ではないらしい。 「そ……それは気の毒だと思いますが、それとあなたがここに引っ越してくるのとは、なんの関係もないでしょう。たしか、社先生もご自宅をお持ちのはずですし」 はっきりとした場所は覚えていないが、郊外に一軒家を所有していたはずだ。 「だーって、あそこ、遠いんですもん。ここだと学校まで三十分ですし」 「近いところがいいなら、おれが物件を探します。ですから……」 「……いやなの?」 ひっそりと、銀生。藍の背にぞわりとしたものが走った。 「ここじゃなんだから、中に入りましょうか」 銀生は藍の腕を掴んで、家の中に引っ張っていった。その間も、引っ越し作業は続いている。 「嘘ついちゃダメでしょ」 リビングで、銀生は言った。 「嘘?」 「そ。藍さん、このあいだ言ったじゃない。『必要ありませんから』って」 鍵のことだ。 「たしかに言いましたけど、でも……」 「それって、俺と同じ鍵を持ってていいってことでしょ。同じ鍵を持つってことは、家族も同然ですよねえ」 なんという論理だ。あまりにも自己中心的な解釈に目眩がした。 「あんたは俺が鍵を持ってることを知りながら、取り替えもしなかった。要するに、俺をこの家の一員だと認めたってことです」 しまった。こんなことなら、無駄だとわかっていても取り替えていればよかった。次々と、こちらの出す手が封じられていく。 「わかっていただけましたか、藍さん?」 にこやかに、銀生が笑った。これは、あのときと同じ顔。 藍は気づいた。学校の廊下でこの男に会ったときの、言い難い感覚。 それは、逃げ場を失った草食動物が感じる恐怖にも似た感覚だった。 |