本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT8 社銀生のとんでもなく捻じれた性格

 その夜も、藍は銀生に体を支配された。ソファーで事を始められ、前回と同じく執拗に責められた。終わりの見えぬ行為に意識は混濁し、ついには指先ひとつ自分では動かせなくなって。
「お粥、保温ポットに入ってますからね」
 事後、ソファーの上で朦朧となっている藍に、銀生は言った。どうやらまた、適当に料理を作ったらしい。
「斎センセが持ってきてくれた高野豆腐とサーモンマリネは、冷蔵庫に入れときましたよ。ほんとはご相伴に与かりたいんですけど、藍さん、いまは食べられないでしょ」
 食事もできない状態にした張本人が、のほほんと続ける。
「じゃあ、今日はこれで帰ります。あ、心配しなくても、ちゃんとカギかけて行きますんで」
「……鍵?」
 藍はゆっくりと顔を上げた。なぜ、この男がうちの鍵を持っているんだ。その疑問が表情に出たのか、銀生はくすくすと笑った。
「きのう、藍さんが眠っているあいだに、ちょっと失礼して合鍵を作らせてもらったんですよ。いやー、最近の鍵屋さんて、ホントに仕事が速いですねえ」
「あなたって人は……」
 無断でそんなことまでしたのか。いったいどこまでやれば気が済むんだ。
 これで、自宅にいても安心できなくなってしまった。たとえ鍵を替えたとしても、この男はなんらかの方法で家に上がり込むだろう。あるいは、ほかの場所で強要されるかも……。
「その目、何度見てもいいですね。怒りと悔しさと憎しみがみなぎってて……そういうのって、ぞくぞくします」
 この変態。どうして、おれがこんな男に……。
 いや、ちょっと待てよ。
 痺れる頭に、ひとつの考えが浮かんだ。怒りと悔しさと憎しみ。それらを自分が捨てたら……よしんば捨てられなかったとしても表に出さなければ、どうなる?
 この男の言葉が事実なら、おとなしく言うことを聞いたり媚びたりする相手には触手が動かないはずだ。だったら。
 できるかどうかは、わからない。が、これ以上この男に生活を乱されるぐらいなら。
 藍は、心を決めた。あと何回かは仕方がない。我慢してやる。なんなら一度ぐらいは、こちらから言い出してもいい。そうやって、この男の興味を失わせていけば、きっと離れることができる。
「どうしました? 心ここにあらずといった感じで」
 銀生が顔を覗き込んできた。藍はあわてて視線を戻した。なるべく、穏やかな顔をするよう努力して。
「ヘンですよ。熱でも出たのかな」
 銀生は藍の額に手をのばした。本当はさわられたくなかったが、そこをぐっとこらえる。ひんやりとした手の感触。
「んー、平熱だと思いますけどねー」
「……大丈夫です。ちょっと、眠くなっただけで」
 できるだけ弱々しく言ってみる。銀生は手を引いて、
「そうですか。じゃ、これで」
 すっと立ち上がり、リビングを出ていく。そのまま振り向くこともなく、玄関の向こうに消えた。ガチャリと鍵のかかる音。
 藍は大きく息をついた。やった。なんとか「お泊まり」は阻止したぞ。
 まあ、今日は帰ると言っていたが、あの男のことだ。いつ気が変わるかわからない。「ぞくぞくします」などと言われたときは、またのしかかってこられるかと思ってしまった。
 この路線で、しばらく様子を見よう。やはり、どう考えても告訴はまずい。仕事がしづらくなるし、もしかしたら辞めさせられるかもしれない。
 碧にも迷惑がかかる。義理とはいえ兄が男と寝たなどと知られたら、どんな中傷を受けることか。
『藍にーちゃんなんか、キライだっ』
 傷ついて、自分の前から去っていくかもしれない。それがいちばん、つらい。
 急速に睡魔が襲ってきた。もう限界だ。藍は電気を消すこともせず、目を閉じた。


 翌日。藍は欠勤した。朝になっても、起き上がれなかったのだ。
 やっとソファーから降りたのは、昼前だった。不本意だったが、保温ポットの中の粥を食べる。ほんのりと胡麻油の香り。枸杞の実と湯葉が入っている。あんなとんでもない人間に、どうしてこんな料理が作れるのだろう。いまだに信じられない。
 どうにか動けるようになったので、斎が持ってきてくれた高野豆腐とマリネも食べた。箸を運びながら、昨日考えた今後の対策を検討する。
 とりあえず、次にあの男に会ったときは、何事もなかったかのように接するんだ。いままで通りに、否、いままでより丁寧に、きちんと対応する。そうしていれば、きっとそのうち飽きてくるはず。
 マリネの最後のひと切れを口にして、藍は自分の決心を再確認した。

「おはようございます、藍さん」
 火曜日の朝。藍が御影学園高等部の校舎に入ろうとしたとき、うしろから聞き覚えのある声がした。
 なんともタイミングがいい。もしかしたら、自分が来るのを見張っていたのだろうか。
 御影学園は高台に建っていて、正門から本校舎まで長い坂道がある。生徒たちはこの坂道を毎日上ってくるのだが、じつはもう一カ所、正門の反対側に通用門がある。こちらはふだんは閉まっているが、藍はそこの鍵を持っていて、常々その通用門から出入りしていた。
 通用門から校庭までは階段で結ばれていて、階段の上には職員寮がある。銀生は寮の中から藍が上ってくるのを見て、玄関にやってきたのかもしれない。
「おはようございます、社先生」
 いつもより丁寧に、しかし堅苦しくないように注意しつつ頭を下げる。
「まーたまた。銀生ですよ、銀生」
 へらりと笑って、
「俺と藍さんの仲じゃないですか〜」
「ここは学校です。けじめは守ってください」
「へっ、ケジメ?」
「はい。就業時間内はおれは事務長で、あなたは化学教師です」
 そして、仕事のあとは。
 含みを持たせて、言う。なびいたように思わせて、この会話を終わらせるんだ。でなければ、また休み時間や昼食のときなどにちょっかいを出されるに決まっている。
「ふーん。そうですね。俺は教師であんたは事務長。それに異論をはさむつもりはありませんよ。じゃあ、また」
 軽く手を振って、銀生は玄関に入っていった。それを見送りながら、藍はほっと肩の力を抜いた。さあ、仕事だ。きのう休んだ分を取り戻さねば。
 気持ちを切り替え、藍は事務局に向かった。


 その日は夏休みの行事の打ち合わせや下準備などが重なって、かなり忙しかった。食堂に行く暇もなかったので、職員のひとりにサンドイッチを買ってきてもらい、それをコーヒーで流し込むようにして食べた。
「事務長、コーヒーのおかわりはいかがですか」
 先刻、サンドイッチを買ってきてくれた宇津木(うつぎ)という名の職員が、コーヒーメーカーの前から訊ねた。
「ああ、頼む……いや、やっぱりいい」
「そうですか?」
 今朝は大丈夫だったが、やはり少し胃の調子が悪いようだ。続けてコーヒーを飲むのはやめておいた方がいいだろう。
「それより、麦茶があったら入れてくれ」
「はい、了解しました」
 宇津木は隅の冷蔵庫から麦茶を出した。自分も麦茶にすることにしたらしい。コップをふたつ用意して、それに注ぐ。
「まだ具合悪いんですか?」
「え? そんなふうに見えるか?」
「ええ、まあ。今日はあんまり怒らないでしょ。元気がないような感じがして」
「おい。それじゃまるで、おれが毎日怒りまくってるみたいじゃないか」
 冗談まじりに返したが、藍は心の中でぎくりとした。たしかに、今日はあまり細かいミスなどは指摘せず、できるだけ怒らないようにしている。なにかの拍子に、あの男に自分がキリキリとしているところを見られてはいけないと思ったからだ。
 まったく、あんな捻じくれた男のせいで、仕事も思い通りにできない。これはこれでストレスになるかもしれないが、あの男を排除するまでの辛抱だ。
 藍はそう自分に言い聞かせ、午後の業務を続けた。