本日モ青春ナリ〜御影学園日記〜 by 近衛 遼 ACT7 桐野藍の果てしなき迷走 倒れそうになりながらも、藍はなんとか事務局に辿り着いた。隅に置いてあるコーヒーメーカーで、コーヒーをいれる。 いつもより濃いめにいれたそれを飲んで、藍は大きく息をついた。 これから、どうしたらいいのだろう。いっそのこと、免職覚悟で前言を撤回するか。あの夜のことを(さらに引き続いて、朝から昼にかけてのことを)公にするぐらいなら……。いや、駄目だ。あんな反社会的な男を、のさばらせておいていいはずがない。でも、告訴するとなると……。 ぐるぐると思考が回る。強烈な吐き気に見舞われた。洗面台に向かう。いま飲んだばかりのコーヒーのほとんどを戻してしまった。 「藍兄さん」 背後から、声がした。慌てて振り向く。そこには、義弟の斎が立っていた。 「具合でも悪いんですか?」 心配そうな顔。 「いや……ちょっと、寝不足でな。それより、なにか用か」 言った直後、碧のことを思いついた。 「碧が、どうかしたのか?」 「え、いいえ。碧は元気にしてますよ。寮生ともうまくやってるみたいで、きのうは中庭で花火をやってました」 「花火?」 「ええ。まだ、夜は涼しいんですけど、近くのホームセンターで買い込んできたらしくて。火の後始末をちゃんとするようにって、おれと水木さんとで見張ってたんです」 「水木?」 「あ、ええと、如月先生のことです」 なんとなく、おどおどとした調子で言う。如月水木。一見、ニューハーフかと見紛うばかりの派手な外見の英語教師だ。本人が言うには、「キレイな人間がキレイなかっこしてなにが悪いのよ」ということらしい。 職員寮にいる連中は、みんな一癖も二癖もあるが、如月水木はその代表だ。やたらと愛想がいいので、保護者会などでも深く追求はされていないようだが。 「そうか。しかし、寮の自室に帰っていないと聞いたが」 「ああ、それなら寮監の先生も承知のことで……」 「寮監も?」 藍は眉をひそめた。寮生の日常生活を監督すべき寮監が、そんないい加減なことでどうする。 「昏くんが碧の補習を担当することになったので、消灯時間などの規制もいくぶん緩やかになったんです」 「補習だと?」 「はい。碧はそれをとても喜んでました。このあいだの国語の小テストも、けっこういい点が取れてましたし、成果は上がってるみたいですね」 多少、成績がよくなったからといって、そんな例外を認めていてはしめしがつかない。ここはひとつ、寮監に意見してやらねば。 そう思って戸口に向かいかけたとき、またしても視界が揺らいだ。 「藍兄さん!」 斎があわてて、上体を支える。 「やっぱり、具合が悪いんですね。病院に行った方がいいんじゃ……」 「いや。大丈夫だ」 冗談じゃない。あちこちに跡が残っているというのに、医者になんか見せられるか。 「でも、すごく顔色悪いですよ」 黒目がちの瞳が向けられる。心底、案じている目。 「心配するな。ちょっと休めば治る」 藍はコーヒーメーカーを片付け、デスクの引き出しに鍵をかけた。 「今日はもう帰る。……ああ、そういえば、おまえの用事はなんだったんだ?」 「あ、べつに、急ぎませんから」 気を遣っているのかもしれないが、斎はそう言った。 「ゆっくり休んでくださいね」 「ああ。じゃあな」 ふたりはそろって、事務局を出た。玄関へと向かう藍の背を、斎はじっと見守っていた。 斎にはああ言ったが、じつはかなり気分が悪かった。ふだんなら電車で帰るのだが、今日はタクシーを拾った。しっかり領収書をもらう。 こんなものが経費で落ちないのはわかっていたが、せめてあの男に請求してやりたい。門扉から玄関までの距離さえ、いやに遠く感じる。なんとか両足を激励し、やっとのことで玄関に辿り着いた。 休もう。あとのことは、あした考えればいい。 鍵を開けて中に入った直後。 「もー、藍さんたら、無理しちゃって」 背後で、声。 あわててドアを閉めようとしたが、遅かった。その男はするりと玄関の中に滑り込んだ。切れ長の目が、うっすらと細められている。 「ダメじゃないですか。今日ぐらい、ちゃんと休まなくちゃ」 いまから休もうと思っていたのに。それなのに、なぜいま、この男がここにいるんだ。 「こんなことなら、きのう、廊下でも台所でも玄関ででも続きをやっとけばよかったですねえ」 銀生はしみじみと言った。 冗談じゃない。こんな色魔に、これ以上関わってたまるか。 藍は靴をはいたまま、中に入った。玄関から出られないのなら、リビングの窓から庭に出るしかない。全力で走る。が、今日の藍は常の状態ではなかった。 気持ちは前に向いているのだが、体が思うように動かない。窓に辿り着く前に足をとられ、そのままソファーに倒れ込んだ。 「あ、ちょうどいいですね」 いかにもそれが想定内であったかのように、銀生はにんまりと笑った。 「じゃ、今日はここでってことで」 のしかかってくる男に向かって拳を上げる。が、それはあえなく、がっしりと受け止められてしまった。手首を掴まれ、ソファーに貼り付けられる。 「告訴、するんですって?」 至近距離で、銀生は囁いた。藍は思わず目を見開いた。 なぜだ。なぜ、そのことを知っている。 「さっき、理事長に呼ばれたんですよ。このあいだ、化学準備室を壊しちゃった弁償にって、藍さんにお金を預けたでしょ。あれが多すぎるから余剰分を返すって。そしたら、なんか藍さんがすごーく怒ってるって聞きまして」 あたりまえだろう。あんな目に遭って、しかも、いままた……。 「でも、告訴するんなら、きのうのうちに被害届を出して、病院で診断書をとっておくべきでしたね」 「診断書?」 「そうです。たとえかすり傷ひとつでも、診断書があれば刑事事件として立件できますし、損害賠償も取れますから」 言いながら、シャツの下をまさぐる。 「あんたはそれをしなかった」 できるわけないだろう。カッとしてにらみ返すと、そこにはきのうと同じ、楽しげな瞳があった。 「いやですよ、藍さん。そんなに誘っちゃ」 だれも誘ってなんかいない。見てわからないのか。 叫ぼうと思ったとき、銀生の手がその場所を捕えた。一瞬、息が止まる。 「……っ!」 ふだんはのったりしているくせに、こういうときだけ動きが速い。しかも、見事に急所を押さえている。 腰を引いたが、逃げ場がなかった。指が中心を刺激する。唇をぐっと噛み締めて、藍は横を向いた。 畜生。そんなことを言うなら、今度は絶対、診断書を取ってやる。こうなったら一蓮托生。道連れにしてやるからな。 まともな思考など、もうできなかった。頭の中は完全に混線している。銀生が次の段階に進もうとしたとき。 ガタン。 リビングの入り口で、なにかがぶつかる音がした。 「え……」 組み敷かれたまま、戸口を見遣る。 「おまえ……」 そこにいたのは、風呂敷包みを抱えた斎だった。 「す……すみません。鍵があいてたから、つい……」 あたふたと、風呂敷包みをテーブルに置く。 「こっ……これ、高野豆腐です。あと、サーモンのマリネも……。よかったら、食べてください。じゃ、おれ、これで」 視線を下に向けたままそう言って、斎はそそくさと出ていった。バタン、と玄関の閉まる音。さらには、カチャリと鍵のかかる音が聞こえた。 「へー、斎センセって、気が利いてますねえ」 同じ体勢のまま、銀生が言った。 「鍵までかけていってくれて」 藍はその声を、ほとんど聞いていなかった。 見られた。こんな姿を、見られてしまった。しかもあの斎の反応からして、自分とこの男が、合意のうえでこういう関係になっていると誤解されてしまったのは間違いない。 なにもかもが、藍の許容値を超えていた。思考回路はあちらこちらでショートしている。 「それじゃ、続けましょうか」 目の前の男の顔が、妙に遠くに見えた。 |