本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT6 桐野理事長の鶴の一声

 その日、夕方になるまで、藍は寝台から起き上がれなかった。
 今日が休みでよかった。そう思う一方で、わざわざそれを狙って飲みに誘ったのかと思うと、まんまとその罠にはまってしまった不甲斐なさに、自分で自分が許せなかった。
「あ、起きたんですか?」
 殺しても飽き足らない男が、にこやかにそう言う。なんとこの男は今日一日中、桐野の家にいて、掃除や洗濯、食事の用意や藍の看護をしていたのだ。本当は、一刻も早く出ていってほしかったのに。
「晩ごはん、こっちに持ってきますから、そのまま寝ててくださいよ」
 藍はその言葉を無視して、寝台から出た。パジャマのボタンをしっかり留めて、戸口に向かう。
「もー、藍さんたら強情なんだから」
 ため息まじりに、銀生。
「もしかして、台所だったら大丈夫だとか思ってます?」
「……どういう意味です」
「だって、必死の形相でベッドから離れようとするんですもん」
 あたりまえだ。ゆうべから、あの寝台の上で行なわれたことを思えば。
「でも俺、べつにどこでもオッケーですから」
「はあ?」
「ですから、場所なんてこだわんないです。藍さんと愛が交わせるなら、ね」
 廊下の壁に、背中を押しつけられた。
「たとえば、ここでも」
 パジャマの下に手が忍び込む。畜生。なんでこんなに簡単に捕まってしまうのだ。仮にもおれは男なのに。
「台所でも、風呂場でも。あ、玄関なんてのもいいですね。週末だから、いつ斎センセや碧くんが戻ってくるか、わかんないし」
 最低だ。藍は銀生をにらみつけた。怒りのあまり、罵声すら浴びせられなかった。
「やーっぱり、いいなあ。その目」
 銀生はくすくすと笑って、手を放した。
「じょーだんですよ。冗談。今日はもうやめときます。なにしろ、たーっくさんいただきましたからね」
 ぴらぴらと手を振って、続ける。
「台所に、カレイの煮付けとシジミ汁とゴボウサラダがありますんで、てきとーに食べてくださいね。じゃ、俺はこれで」
 すたすたと、出ていく。玄関のドアが静かに閉まった。が、まだ油断はできない。藍は待った。そして、約三分後。
 そっと玄関に近づいた。外の様子を窺う。
 いない。あの男の気配はない。藍はドアに鍵をかけ、チェーンを下ろした。足早に台所に向かう。
 テーブルには、銀生が言っていたように、煮魚や味噌汁などが置かれてあった。あの男の作るものは、どれもたしかに旨い。この状況で食して旨いと思えるのだから、相当なものなのだろう。が。
 藍はそれらをすべて廃棄した。味噌汁は流しに捨て(環境を考えると、必ずしも誉められたことではない)、ほかのものはゴミ箱に放り込んだ。勢いあまって皿まで捨てそうになり、あわてて拾い出したが。
 水を一杯飲んでから、風呂場に向かう。あの男の匂いを一刻も早く消したかった。肌に刻まれた跡は、どうしようもないにしても。
 冷たいシャワーを浴びながら、藍はようやく悪夢のような長い一日に終止符を打った。


 翌日は日曜日だったが、藍は定刻に事務局に入り、社銀生に関する資料を集めてつぶさに研究した。
 あの男のことだ。これまでにも、同性相手になにか問題行動をとった可能性がある。もしかしたら、生徒に手を出したことだってあるかも。そういう過去が隠蔽されていたとしたら、十分、退職に追い込める。
 そう考えて、ここ五年ばかりの日誌や、銀生が担当した生徒たちの記録を調べてみたが、収穫はほぼゼロだった。
 周知の通り、個人的な実験で教室や器具を破損したり、中には実験を手伝った生徒に怪我をさせたりしたことはあったようだが、それらはすべて穏便に解決されており、学校へもその度に賠償金を支払われている。一般市民からすれば信じられないような額だが、件の特許のおかげで、毎年、かなりの収入があるらしいので、教室の補修や実験器具の購入など、たいしたことではないのだろう。
 しかし、妙だな。あの手際のよさからすると、かなり遊び慣れていると思うのだが。
 自身が経験したあれこれを鑑みて、藍は思った。相手の意志などまるで無視したあの行動。あれがはじめてだったとは、とても思えない。ほかにもきっと、あの男の毒牙にかかった者がいるはずなのだが。
 藍は資料をまとめて、デスクを立った。そのまま理事長室へと向かう。
 御影学園理事長の桐野篝は、休日でもたいてい理事長室にいた。なんでも、校内にいると落ち着くのだとかで、今日も来ているはずだった。
 きっかり三回、ノックする。しばらく待って、もう一度ノックしてみるかと思ったとき、中からいらえがあった。
「失礼します」
 藍は理事長室に入った。
「おまえか」
 篝は肘掛け椅子に腰掛けたまま、藍を迎えた。
「どうかしたか」
「はい。じつは、社先生のことで、ちょっと……」
「社銀生か。またなにか、壊したのか?」
 壊したと言えば、壊したな。藍は心の中で苦笑した。
「ええ、まあ。それで、ご相談したいことがあるのですが」
「おまえが私に相談とはめずらしい」
 楽しげに、篝は笑った。
「なんだ。聞こう」
「社先生を、解雇していただきたいのです」
「ほう。解雇とは、また穏やかでないな」
「あの男は、教育者としてはもちろん、人間として最低です。即刻、辞めさせるべきです」
 思わず、私情が混じってしまった。篝はそれに気づいたのか、
「……なにがあった?」
 やや目を細めて、訊いてきた。
「え、いえ。べつになにも……。ただ、あの男は、あまりにも無礼で傍若無人です。人権侵害も甚だしい行ないを、まるでさもあたりまえのように……」
「では、告訴しよう」
「は?」
 藍は目を丸くした。告訴? なんの話だ。
「おまえがそこまで言うからには、許し難い出来事があったのだろう。だが、それをあの男に認めさせるには、個人の力だけでは無理だ。私もあの男が、多少、性格に難のある人間だということは承知しているのでね」
 なにが「多少」だ。「多大」に、いや、ほとんど全部、なにもかも「難あり」だぞ。
「とにかく、社銀生に対するおまえの憤りはよくわかった。御影学園としては優秀な人材を失うことになるが、中長期的視野で見れば、それも致し方ないことかもしれない」
 淡々と、篝は語を繋いだ。
「明日、わが校の顧問弁護士に連絡して、こちらに来てもらうことにする。おまえはそれまでに、いままでの経過をまとめておくように。それによって、何罪で告訴するか検討しよう」
「あ、あの、理事長。おれはべつに、訴えるとは……」
「曖昧な理由で解雇しては、こちらが訴えられる。そうなっては、御影学園の名に傷がつく。この際、白黒ははっきりさせておかねばな」
 篝は立ち上がった。藍の瞳を覗き込んで、
「社銀生を甘く見るな。あの男は弁護士の資格も持っている。もっとも、実際に法廷にたったのは数えるほどだがな」
 ちなみに、『裁判てタイクツなんですもん』というのが、弁護士として開業しなかった理由らしい。
 なにやら、とんでもない方向に話が進んでしまった。
 告訴。ということは、つまり、あの男がなにをしたのか、すべてを白日のもとに晒さなければならないということで。
 理事長室を出たところで、藍は視界が揺らぐのを感じた。壁に手をつき、なんとか踏ん張る。
 どうすればいい。あの男の不行状を進言してクビにすればいいと思っていたのに、こんな展開になってしまうなんて。
 頭痛と目眩と耳鳴りに苛まされながら、藍はふらふらと事務局へと向かった。