本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT5 桐野藍の一生の不覚

 どんよりとした闇。その中に藍はいた。
 思うように動けない。いったい、どうなっているんだ。ここはどこだ。もがくように前に進む。しかし視界は開けない。
 ああ、これは夢だ。自分は夢を見ているのだ。
 早くこの夢から覚めなければ。そしてあの男に、碧のことをもっと詳しく訊くんだ。寮からいなくなったのなら、最悪の場合、捜索願いを出さなければ……。
「……んっ」
 意識が表層に浮き上がった瞬間。
 藍は自分の一部が拘束されていることを知った。
「……う……んんっ」
 苦痛のあまり声が漏れた。どうして自分が、こんなことに……。
「おはようございます」
 耳元で、この状況にまったくふさわしくないのんびりとした声がした。
「やーっと、起きてくれましたね」
 がっしりと腰を掴んだまま、言う。
「……っ……く……ぅ……」
 疼痛が脳天まで駆け上がる。折り曲げられた下肢は痺れて、もはや自分の意志では動かすことができなかった。
「あー、やっぱり、目が覚めた方がいいですね」
 うっとりとそう言って、腰を揺らす。衝撃が全身に波及した。
「声も、ここも」
 突き上げられて、目の前が銀色になった。
 なんなんだ。まだ夢を見ているのだろうか。これが現実だなんて、到底信じられない。
「……な……なにを………」
 抗議の声を発するのも、つらい。体の奥をえぐられて、そこからぴりぴりとした毒を塗り込められているような気がする。染み込んでいく。侵されていく。ありうべからざるものに。
 中にあるそれが、自分を変えていく。その瞬間を自覚して、藍ははっきりと銀生を憎悪した。
「素敵ですよ」
 藍のあごを捕えて、銀生は言った。
「その目……最高です」
 唇が近づく。藍は思い切り、それを拒絶した。苦い鉄の味。鮮血が銀生の唇ににじんだ。
「ほんとに」
 切れ長の目が、このうえなくきれいに細められた。
「素敵です」
 血が舐め取られる。その部分が明確に自己主張した。それまでよりも、さらに激しく。
 声を出すことさえできなかった。必死に呼吸を確保して、藍はその嵐の通り過ぎるのを待った。


 幾重にも重なった嵐が治まったのは、窓の外が白くなってきたころであったろうか。障子の桟がぶれて見えたのは覚えているが、そのあとの記憶はなかった。
「あ、気がつきました?」
 やたらに明るい部屋の中。二度と聞きたくないと思っていた男の声がした。
「ごはん、食べられそうですか? 勝手だとは思ったんですけど、冷蔵庫にあるもので、てきとーに作ってみたんですが」
 寝台の横にあるサイドテーブルに、卵焼きとなにやら小鉢が乗っている。少し離れたところにあるテーブルには保温プレートが置いてあり、上には両手鍋。どうやら味噌汁らしい。ちなみに、そのとなりには炊飯器がある。
「お米、すごく上等なの買ってるんですねー。粒そろってるし、つやつやしてるし。もしかして魚沼産コシヒカリですか?」
 違うよ。新潟産なのはたしかだが。
 返事をする気力もなかった。だいたい、こんな極悪非道な輩に、まっとうに受け答えする必要などなかろう。
 男同士の関係が成り立つことは、知識として承知していた。個人の嗜好の問題だし、その類のカップルに対しても、とくに偏見を持っているわけではない。が、まさか自分が性的行為の対象になるとは思っていなかった。酔っていたとはいえ、なんとも情けない。
 この男は、最初から自分をそういう目で見ていたのだろうか。やけに馴れ馴れしいとは思っていたが。
「もー、藍さんてば。なんとか言ってくださいよ」
 いつにもまして、馴れ馴れしい。藍は目をつむった。視界の中に、この男が存在するのも厭わしい。
「アノときは、すごーく素直だったのに」
「だっ……だれがそんな……っ……」
 思わず反論した。が、それは長くは続かなかった。声を上げた途端、とある部分に衝撃が走ったから。
「あー、無理しちゃダメですよ〜」
 ことさらやさしく、銀生は言った。
「ゆうべ、いっぱいムリしちゃったんだから」
 そうさせたのは、いったいだれだ。藍は心の中で叫んだ。
 許さない。こんな男、絶対にクビにしてやる。
 天才と気狂いは紙一重。こんな色情狂にこれからも付きまとわれてはたまらない。
「やっぱり、朝はお粥がよかったかなー。あ、雑炊もいいな。味噌汁があるから、味噌雑炊にしましょうか。いまから作ってきますねー」
 鼻唄を歌いながら、両手鍋を持って出ていく。
 そんなものは要らない。そう言いたかったが、口の中がからからに乾いていて、声が出なかった。
 悔しい。いままで生きてきた中で、これほど悔しかったことはない。藍は寝台に張り付いたまま、きつく唇を噛み締めた。


 結局、その朝。
 藍は銀生の作った味噌雑炊と卵焼きと酢の物を食べた。できれば食べたくなかったのだが、拒否すると口移しで食べさせられそうになったからだ。そんな目に遭うぐらいなら、自分で食べた方がましだ。藍はなんとか自力で起き上がり、朝食を摂った。
「……ごちそうさまでした」
 きっちりと手を合わせて、言う。
 味は、じつに旨かった。卵焼きは薄味の出し巻きだったし、酢の物は少し甘めで、味噌雑炊もネギがたっぷり入っていて、どれもこれも藍の好みだった。まったく、こんなとんでもない男が作ったとは思えないほどに。
「いえいえ、どーいたしまして。いやあ、うれしいなあ。藍さんが俺の愛を受け入れてくれて」
 やかましい。なにが愛だ。こんな仕打ちを受けて、黙っていると思うな。いまはまだ体がいうことをきかないから、おとなしくしているだけだ。明日になったら、理事長に進言して、なにがなんでもこの男を御影学園から追放してやる。
 と、そこまで考えて、藍はある重大なことを思い出した。そうだ。碧だ。きのう、この男は碧が寮の部屋に帰っていないと言った。その事実を確認しなくては。
「あの、社先生」
「もー、何度言ったらわかるんです? 銀生ですってば」
「……銀生さん。碧のことですが、寮にいないというのは、本当ですか」
「そんなこと言ってませんよ。自分の部屋に戻ってないとは言いましたが」
「同じことでしょう」
「違いますよー。余所に泊まってるだけですもん」
「余所って……」
「どうやら、ここ一週間ばかり、昏のところで寝起きしてるみたいですねえ」
 銀生は入学時首席、現在学年トップの成績を修めている生徒の名前を口にした。
「どこに行くにもふたり一緒で、傍目から見ててもラブラブですよ。もしかしたら、もうデキちゃってるかもしれませんねー」
 すっ、と藍の肩に手を回して抱き寄せる。
「俺たちみたいに」
「ばっ……馬鹿なことをいわないでくださいっ!!」
 最大音量で叫んだ。モロに腰に響いたが、そんなことはかまっていられない。
 確かめなければ。もし本当にそんなことになっていたら、学年トップだろうがなんだろうが、即刻退学だ。
 思い切り私怨の交じった思考を炸裂させていると、
「なんか、妬けますね」
 耳元で、銀生が囁いた。
「目の前で、ほかのやつのことを考えられると」
 ぐっ、と肩が押された。ふたたびベッドに倒される。
「な……なにを……」
「なにって、決まってるでしょ」
 手が下肢のあいだに伸びる。
「デザート、いただきます」
 デザートだと? ふざけるな。さんざん好き勝手なことをしたくせに、まだ足りないのか。
 中心が嬲られる。不本意このうえないが、いまはまともに抵抗できない。
 人生最大の屈辱と憤怒の中、藍は復讐の二文字を脳裡に刻んだ。