本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT4 社銀生の大いなる罠

 ショットバー「ギムレット」は、ほぼ半分の入りだった。八時という時間を考えると、こんなものだろう。藍が店に到着したとき、銀生はまだ来ていなかった。
 なにをしているんだろう。自分よりかなり早く学校を出たはずなのに。
 藍はカウンターの隅にすわって、水割りを注文した。飲む気はなかったが、なにかオーダーしないと居心地が悪い。社銀生のふだんの行状からして、遅刻してくる可能性が高かったから。
 運ばれてきた水割りには手をつけず、藍は店の中を見回した。間接照明に照らし出された空間は、じつに落ち着いた雰囲気だった。
 あの破天荒な男がこんな店を知っているとは少々意外だが、騒々しい居酒屋やカラオケに誘われなくてよかった。性格上、羽目を外すことができなくて、飲み会などではいつもひとりだけ浮いてしまう。いつだったか、体育教師の榊剛に「シケたツラしてるやつがいると、酒がまずくなる」と面と向かって言われたこともあるが、持って生まれた性分というのは、なかなか変わらない。
 それにしても、遅いな。
 藍は時計を見た。もう三十分ちかくたつ。自分からここを指定したくせに、いくらなんでも遅すぎるぞ。こんなことなら、携帯電話の番号をメモってくればよかった。
 事務局には、教職員の非常時の連絡先が書かれたファイルがある。何度か見た記憶はあるが、さすがの藍もそのすべてを覚えてはいなかった。
 イライラと時計をにらみつけていると、目の前に新しいグラスが置かれた。と同時に、手付かずのグラスが下げられる。
「えっ……」
「待ち人来たらず、ですか」
 バーテンダーが、にっこり笑ってそう言った。年は五十前後。白髪まじりの髪をきっちりとうしろに撫で付けている。
「おかわりを注文した覚えはありませんが」
 固い声で、言う。
「これは失礼しました。わたくしどもは、水割りというものは、作った直後と、氷が少し解けてきたときと、最後の雫とを味わっていただきたいと思っておりまして。決して押し売りではございませんので、ご心配なく」
 要するに、藍がグラスに口を付けなかったので、取り替えただけということか。御影学園の近所にある喫茶店のマスターは、コーヒー豆の種類や焙煎の仕方や、果ては飲み方までに独自のこだわりを持っているが、この男もどうやらその類であるらしい。
 とりあえず、追加料金を取られることはなさそうだ。藍はそう判断して、グラスに手をのばした。このまま置いておいて、またぞろ新しいグラスを出されるのは気まずい。
 嘗めるようにして飲むと、香りが口に広がった。たしかに、自分で作る水割りの何倍も旨い。水や氷の違いもあるのだろうが、やはりプロの腕は侮れない。
 そんなことを考えながら、氷の解けていく様子を見ていると、
「いやー、どうもどうも、お待たせしちゃって」
 うしろから、脳天気な声がした。きっかり三十分遅刻してきた男は、悪びれた様子もなく藍のとなりにすわった。
「へーえ、水割りですかー。藍さん、いつもはビール一杯だけで、あとはウーロン茶ばっかりだったから下戸かと思ってましたが」
「騒がしいのが苦手なだけです」
「じゃ、ここにして正解だったなー」
 銀生はうきうきとした顔で、続けた。
「ここはねえ、理事長がよく来る店なんですよ。知ってました?」
「いいえ」
 御影学園の理事長である桐野篝は藍の叔父にあたるが、私的な付き合いはほとんどない。というのも、藍の両親が事故で亡くなる直前まで、篝はイギリスで暮らしていたからだ。
「それより、碧のことですが……」
 藍が話を振ると、
「まあまあ、そんなに慌てないで。とりあえず乾杯しましょうよー」
 銀生は自分も水割りを注文した。
「夜は長いんですから。ね?」
 なにが「夜は長い」だ。女を口説いてるんじゃないんだぞ。乾杯なんて、だれがするか。
 藍は横にいる男をにらんだ。が、当の本人はその視線をまったく無視して、グラスを掲げた。
「藍さんとの初デートを祝して、かんぱーい」
 カウンターに置かれたままの藍のグラスに、銀生は自分のグラスを合わせた。


 銀生はよく飲み、よく笑い、よくしゃべった。教師たちの裏話や生徒の噂話、中には保護者が聞いたら卒倒しそうな内容もあったが、それが事実かどうかはわからない。
「……とゆーわけで、錦織先生は万葉のロマンを追い求めた挙げ句、人妻に熱烈なラブレターを送っちゃって、前の学校をクビになったんですよ。もっとも、実際はそーゆーコトはまったくなかったんですけどねー」
 しかし、それだと一歩間違ったらストーカーだぞ。
 四杯目の水割りを飲みながら、藍は思った。御影学園には変わった前歴を持つ教師が多いが、あの元華族の古典教師も例に漏れなかったらしい。
「で、さらに輪をかけてスゴイのが、榊先生で……」
「……社先生」
 もういいだろう。この男のヨタ話に一時間も付き合っているのだ。そろそろ本題に入ってもらわねば。
「やだなあ。銀生ですってば」
「では、銀生さん。当校の現状についてのお話はわかりました。それよりも、おれがお聞きしたいのは、碧が寮内でなにかトラブルに巻き込まれているのではないかということで……」
「トラブル? だれがそんなことを言ったんです?」
 のほほんと、銀生。
「だ……だれって、あなたがさっき『いろいろたいへんみたいだ』と……」
「あー、そういえば、そんなこと言いましたっけ」
「『言いましたっけ』って、無責任な!」
 だから、わざわざこんなところまで出向いてきたのだ。碧のことを少しでも聞きたくて。
「そんなに怒らないでくださいよ。べつに、トラブルなんてありませんて。ただ……」
「ただ?」
「碧くん、しばらく寮の部屋に戻ってないみたいで」
「なっ……ななな、なんですって!!」
 ガタン、と藍は立ち上がった。一瞬、視界が揺らぐ。
「あ、大丈夫ですか?」
 銀生の手が、藍の腰に回った。
「落ち着いてくださいよ、藍さん。血管、切れますよ」
 うるさい。これが落ち着いていられるか。
 寮に帰ってないだと? じゃあ、どこに行ってるんだ。だいたい、寮監はなにをしている。寮生の動向も把握していないような無能な寮監など、即刻解雇してやる。
 藍は戸口に向かおうとした。が、足がうまく動かない。
 へんだな。たかが水割りの三杯や四杯で、こんなに酔うはずはないんだが。
 ああ、でも、このところまともなものを食べていなかったから、アルコールの回りが早いのかも。
 斎と碧が桐野の家を出てから、藍は栄養補助食品やサプリメントを摂ることが多かった。昼食は学校の食堂で食べることもあったが、それも事務の仕事が重なったときなどは、手早く栄養補給のできるゼリー飲料などで済ませていたのだ。
 消化器官は、使わないと退化する。弱った胃にアルコールはかなりの刺激を与えたのかもしれない。
「ちょっと待ってくださいよ。送っていきますから」
 銀生が囁いた。カウンターの奥に向かって「今日のぶんはツケといてねー」と明るく言う。バーテンダーは心得たもので、軽く会釈して「かしこまりました」と答えた。
「行ってらっしゃいませ」
 独特のあいさつに送られて、店を出る。生ぬるい風がまとわりついてきた。余計に気分が悪くなる。
 大通りに出たところで、銀生が一台のタクシーを捕まえた。
「北町通り三丁目。『めぐみ子供病院』の裏まで」
 すらすらと、行き先を指示する。
 ……なんで、この男がおれんちを知ってるんだ。一度も教えたことはないのに。
 疑問を感じたのは、一瞬だった。目眩と頭痛、そして平衡感覚の喪失。繁華街のネオンがぐるぐると回って、藍は意識を失った。