本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT3 桐野事務長の底辺の日々

 翌日、藍は朝食も摂らず、斎の作った弁当も持たず、桐野の家を出た。
 斎は心配そうにそれを見送っていたが、碧はまるできのうのことなどなかったかのように、斎オリジナルの砂糖入りの甘い卵焼きを頬張っていた。実際、碧の頭の中から昨日のあれこれは消え失せているのだろう。それを思うと、ますますやりきれない藍だった。
「あれえ、どーしたんですか、藍さん」
 最低な気分の朝に、いちばん会いたくない男に会ってしまった。場所は本校舎の入り口。
 藍はげんなりと、声の主を見た。社銀生。私立御影学園高等部の化学教師である。
「目の下にクマなんか作っちゃって。せっかくの綺麗な顔が台無しですよ〜」
 やかましい。そりゃクマぐらいできるって。ゆうべはほとんど寝ていない。おまけに、昼の弁当の残りしか食べてない。しかもそれが、どうやら少し傷んでいたらしく(いまは六月。一年中で最も食中毒の起こりやすい時期だ)、夜中から藍は腹を下していた。
「へんなことを言わないでください。おれはべつに、顔を売り物にしているモデルでも俳優でもないです」
「あー、そうですよねー。そんじょそこらのイケメン俳優とか流行りの外人スターなんか、メじゃないですもん」
 へらりと笑って、続ける。
「藍さんの場合は、普遍かつ不変の美しさですから」
 こんなクサレ男に付き合ってられるか。藍はむっつりとしたまま、校舎の中に入った。ずんずんと事務局に向かう。
 職員はだれも来ていなかった。当然である。まだ始業時間の一時間も前なのだ。藍は鍵を開けた。
「あの〜」
 すぐうしろで声がした。なんだ。まだいるのか。デスクの上にかばんを置いて、振り向く。
「……なんですか」
「も〜、そんなに怒らないでくださいよ。きのうのことだったら、謝りますから。ね?」
 銀生は昨日、とある実験をやって化学準備室を半壊させている。その際、先月購入したばかりの強化ガラスと遠心分離機がオシャカになっていた。
「謝って済む問題ではありません」
「だって、謝らなかったら藍さん、もっと機嫌悪くなるでしょ」
 逆に言えば、この男のこの謝り方では、ますます機嫌が悪くなるのだが。藍はぎろりと銀生をにらんだ。
「では、破損部分の弁償をしていただけるのですね」
「もちろんですよ。きのうも言ったでしょ」
 銀生は、持っていた近所のコンビニのビニール袋をデスクの上に置いた。
「とりあえず、これだけ持ってきました。足りなかったら、あとでまた用意しますんで言ってくださいね〜」
「これだけって……」
 藍は目を見張った。中身は、札束である。
「あ……あなたねえ、こんな大金……」
 藍がわなわなと固まっていると、
「やだなあ、そんなに感動しないでくださいよー」
「だっ……だれも感動なんかしてませんっ」
 あまりの非常識さに呆れているだけだ。札束をポテトチップスやカップラーメンと同じ感覚で持ってこないでほしい。
 藍はあわてて、コンビニの袋を掴んだ。とにかく、これは一刻も早く厳重に保管しなければ。事務局では人の出入りが多い。理事長室の金庫に入れるのがいちばん安全なのだが。
「なにウロウロしてんです?」
 不思議そうに、銀生が訊いた。
「それじゃ動物園のクマですよ」
 だれがクマだ。だれがっ!!
 頭の中で怒号が轟く。
「なにって、これをどうしようかと……」
「そんなの、藍さんの机ん中にでも入れときゃいいじゃないですか」
「ばかなことを言わないでください! もし盗難にでも遭ったらどうするんですかっ」
「どーもしませんよ」
「はあ?」
「俺がまた、持ってきたらいいだけですから」
 のほほんと、銀生。
 藍は大金の入ったコンビニの袋と、どこまでもズレている長身の男とを見比べた。かねがね、とんでもない男だとは思っていたが、ここまでとは。
「……わかりました。お預かりします」
 脱力しつつ、鍵のかかる引き出しに仕舞う。
「あー、よーかった。藍さんに受け取ってもらえて」
 このうえなく上機嫌な顔で、銀生は言った。
「安心したらお腹がすいちゃいましたよ。じゃ、俺、食堂に行ってきますね〜」
 御影学園には、職員寮と学生寮がある。当然ながら、食堂も早朝から開いている。
 スキップを踏むような足取りで、銀生が出ていく。藍は空腹を訴える胃に、出勤途中で買ってきた栄養ドリンクを流し込んだ。


 そんな日々がしばらく続き、週末。
 斎と碧は、それぞれ職員寮と学生寮へと引っ越していった。斎は藍に、三つ指をついてあいさつをし、さらに仏壇に手を合わせて桐野の家を後にしたが、碧はいつも学校へ行くときと同じく「じゃ、藍にーちゃん。いってきまーす」と、ぶんぶんと大きく手を振って出ていった。余韻もなにも、あったものではない。
 二人が出ていったあと、残ったのは静寂だった。
 藍はいままで、ひとりで暮らしたことはない。両親を事故で一度に失ったあとも、義理とはいえ兄弟たちがいたから。
 この家は、こんなに広かったのか。
 リビングのソファーにもたれて、そう思う。外の風の音や、あるいはどこかで遊んでいる子供たちの声。遠くから聞こえるそれらが、室内の静けさをことさらに拾っていた。


「今晩、お暇ですか〜?」
 とある日の昼休み。
 藍はいきなり眼前でそう言われた。声の主は、銀生である。
「……なんのご用です」
 ほとんど抑揚のない声で答える。
「うわー、あいかわらず元気ないですねえ。あんたがそんなだと、事務局もお通夜みたいになっちゃいますよ。今日はぱーっと験直しに行こうと思って、誘いに来たんです。もちろん、ぜーんぶ俺のおごり。いいでしょ?」
「せっかくですが、お断りします」
 藍とて、職場の付き合いが大切だというのは知っている。が、それも相手によりけりだ。
「えーっ、どうして」
「まだ仕事が残ってますから」
「……ふーん。そんなに仕事が大事なの」
 にんまりと笑って、銀生は続けた。ひっそりとした声で。
「あのコよりも?」
 藍は顔を上げた。
 あの子? なんのことだ。まさか……。
「寮に入って、いろいろたいへんみたいですねえ」
「社先生……」
「銀生、ですよ」
 可聴音ぎりぎりの声で、言う。
「……銀生さん、それは、どういう……」
「お話は、あとで。いいですね?」
 銀生が、繁華街の外れにあるバーの名刺を差し出した。
「八時ごろで、いいですか」
「……はい」
 短く答えると、銀生は鼻唄を歌いながらデスクを離れていった。