本日モ青春ナリ
〜御影学園日記〜            by 近衛 遼




ACT11 社銀生の人生最高の一日

 その日の昼すぎに、斎がまた重箱弁当を持って桐野の家にやってきた。引っ越し当日はなにかと忙しくて、昼食を作る暇などないと思ったらしい。
「社先生には、店屋物でも取るからって言われたんですけど、おれもなにか手伝えたらと思って」
 屈託のない笑顔。斎。おまえはいいな。なんの苦労もなくて。
 藍はもうなにもする気になれなくて、朝からずっとリビングにすわっていた。「ネコさんマークの引越屋」が荷物を運び終えて帰ったあとも、そこから動かなかった。結果、銀生がひとりで細々とした私物を整理していたのだが、ちょうどそのとき、斎が来たのだ。
「藍兄さん、やっぱりこの頃、具合がよくないんですね。これ、先に食べててください。おれ、社先生のお手伝いをしてきますから」
「まっ……待てっ!」
 思わず、叫んでしまった。冗談じゃない。ひとつ部屋に斎とあの男を入れるなんてできるか。あの男はとんでもない色情狂なんだぞ。それこそ「今日からは斎センセとも『家族』ですからね〜」とか言って、襲いかかるかもしれない。
「え、なんですか?」
 きょとんとして、斎が振り向いた。
「え、いや、あの……」
 どう言ったらいいんだろう。斎は純粋に好意から手伝おうとしているのに。
「ああ、碧でしたら、いま期末テストの追い込みなんですよ。ほんとは連れて来たかったんですが、社会と理科がギリギリなんで、そのへんを見直ししようってことで……」
 碧の姿がないことを気にしていると思ったらしい。
 そうか。碧、がんばっているんだな。すまない。おれはいま、おまえのことを思い出しもしなかった。
「英語もなんとかなりそうなんですよ。昏くんが究極のヤマってのをかけてくれまして……」
「ヤマ?」
「ええ。昏くんていつもテスト問題が予想できるらしいんですよね。ただ、それが本当だとしても、碧の記憶力だとその半分ぐらいしか点数は取れないと思うんですけど」
 予想が多少外れていたとしても、赤点は免れるかもしれない。
「そうか。……よかったな」
 本心から言うと、斎はまじまじと藍を見て、
「……怒らないんですか?」
「え?」
「だって藍兄さん、よく『ヤマをかけるなんて邪道だ』って言ってたから……」
 たしかに、そうだ。が、ヤマも実力のうち。間違えると、今回の自分のような目に遭う。
「がんばっているなら、いい。それより、おまえももう帰れ」
「え、でも……」
「運送会社の人がおおむね片づけていったらしいから、あとはたいしたことはない。帰って、碧の勉強を見てやってくれ」
「……わかりました。じゃ、これで」
「ああ、ありがとう」
 微笑んで、義弟を玄関から送り出す。斎は何回か振り向いていたが、やがて通りの角を曲がっていった。
 梅雨晴れの空。もうすぐ夏。眩しい陽射しが降りそそぐ。
 藍は長年暮らしてきた家を見上げた。いまならまだ逃げられる。それこそ斎のところにでも。理事長の篝のところにでも。
 ふたたびこの玄関を開けたら、自分は完全にそれを認めることになるのだ。あの男を受容することを。
 許せるわけがない。そんなことは死んでも嫌だ。しかし、なぜ自分が死なねばならない。なぜ自分が傷つかねばならないのだ。あんな男のために。
 もう傷つかない。もう怖れない。そんな価値もない。
 あの男に、自分は無力なのだと教えてやる。世の中には、決して手に入れられないものがあるということを。
 藍はゆっくりと玄関の扉を開けた。


 銀生の部屋は、以前、斎が使っていた部屋だった。午後四時を過ぎてから、銀生はやっとリビングに降りてきた。意外と時間がかかったようだ。
「もー、藍さんたら冷たいんだから。少しは手伝ってくれると思ってたのに〜」
「すみません。そんな気分になれなかったので」
 淡々と言って、重箱弁当を差し出す。
「斎が持ってきてくれました。食べますか」
「へー、斎センセって、やっぱり律儀ですねー。藍さんはもう食べたんですか?」
「いいえ」
「待っててくれたんですか。うれしいなあ」
「食欲がなかっただけです」
 思ったことが思ったままに出てくる。水が高いところから低いところに流れるように。
「ふーん。ま、そりゃそうだろうね」
 くすりと銀生は笑った。
「あんた、今日から俺のもんだから」
「違いますよ」
「へえ。そう?」
 銀生は藍のあごを掴んだ。噛みつくような口付け。口腔内が犯され、リビングの床に倒された。
「ここでは、嫌です」
 唇をずらして、言う。
「ここでは、ですか」
「はい」
「じゃ、どこで?」
「食事はどうします」
「藍さん、食欲ないんでしょ」
「はい」
「俺もいま、食欲がなくなりました」
 にんまりと笑って、銀生は上体を起こした。
「斎センセのお弁当は、冷蔵庫に入れておきますね」
 すたすたと台所に向かう。
「これでよし、と。じゃ、藍さん」
 振り向いて、続ける。
「ベッドの上なら、いいですか?」
 その問いには答えず、藍は寝室へと向かった。


 外はまだ明るい。カーテンをしっかりと締め切り、エアコンのスイッチを入れる。
「藍さん、なんか、まるで別人ですね」
「なにがです」
「このあいだも別人だったけど、あれはワザとだったでしょ」
 どうやら見透かされていたらしい。
「だったら、なんです」
「いや、あれも面白かったですけどね」
 そのときのことを思い出したのか、銀生は小さく笑った。
「でも、らしくなかったですよ」
「それは失礼しました。おれも、必死でしたから」
「なるほどね。で、いまは?」
 衣服を脱ぎ始めた藍を見遣って、訊く。
「もちろん」
 言いながら、藍は最後の一枚を床に落とした。
「必死です」
 そうだとも。これは真剣勝負。負けるわけにはいかないのだ。
「それは……素敵です」
 このうえなく幸せそうな顔で、銀生は言った。


 求められた。強いられるのではなく。
 それは藍にとって違和感のあるものだった。が、だからといって、この男に情けをかける気はさらさらない。
 先を促す声に否は言わない。そうしてほしいなら、しよう。結果がこの男の望み通りになるとは限らないけれど。
「……もう、いいですよ。じゃ、次は……」
 指示する声が、遠くに聞こえた。今度はなにをすればいいんだ。
 導かれるままに動く。余計なことは考えない。考えていては、この渦に飲まれてしまう。
 深く深く交わった。自身が変化していくのもわかったが、抑えることはしなかった。そんなことに、なんの意味もない。
 これまでの自分が、跡形もなく四散していく。
「……」
 藍は銀生に口付けた。それこそが、藍の決意だった。