たまゆら  by 近衛 遼




第十帖

 都に行けば、しばらく戻れまい。物の怪騒動の実体がどういうものかはわからないが、清顕卿の病状を探り、万一それが毒殺を狙ったものだとすれば、その大元を始末せねばならないから。
 萩野はそこまで考えが及んでいなかったようだが、顕良も清興も刺客に狙われたのだ。清顕卿にも刺客が差し向けられたとしても、不思議ではない。
「へえー、今朝は餅もついてんの。なーんか、これ、月見団子みたいだねー」
 あいかわらず上機嫌で、岷が餅を頬張る。
「ん〜、うまいっ。こっちの甘葛煮もおいしいな〜」
 槐の国の龍野と呼ばれる地方でしか産出しない最高級の葛粉を使った煮物は、たしかに絶品だった。
 舌が腫れるぜ。心の中でうそぶきながら、鬼堂はその栗の甘煮を味わった。御簾の向こうでは、顕良が萩野の給仕で朝餉を食している。
 起きられねえと思ってたんだがな。なにしろ、あのあと……。
 先夜のあれこれを思い出す。次々に欲望が沸いてきて、結局、明け方近くまで体を放すことができなかった。人事不省に陥った顕良の手当てをし、夜具を整えたのは、萩野が西の対屋に渡ってくる一刻あまり前のこと。
「若さま、ごきげんようお目覚めあそばしませ」
 萩野が手水の準備を整えて御簾の外から声をかけたとき、しばらく返答がなかった。まだ意識が戻らないんだろう。そう考えていた鬼堂の予想は、数瞬後に裏切られた。
「大儀である」
 やや掠れてはいたが、落ち着いた声。萩野は手水鉢を手に、しずしずと御簾内に入った。いつものように朝の支度は進み、いま、自分たちは朝餉の席に着いている。
 体に何カ所が跡を残してしまったが、萩野に気づかれなかっただろうか。あの主上大事の侍女がなにも言わないところをみると、大丈夫だとは思うが。
「あーあ、こんなご馳走も、しばらくお預けなのね〜。なーんか切ないなー」
 岷がしみじみと言う。
「これから毎日、欠き餅とかすいとんとか乾飯とか焼き味噌でガマンできるのかなあ。あー、もう、ブルーだよお〜」
 このひと月ちかく、顕良と同じ食事を摂っていたのだ。舌が肥えてあたりまえである。とはいえ、自分たちはいままで泥水をすすって生きてきた。いざとなれば、屍肉を喰らってでも生きるだろう。そんなことは岷とて十分、承知しているはずだ。
 いずれ本当に、ここでの暮らしが終わる日が来る。それまでせいぜい楽しめばいい。仮の宿りの、うたかたの夢を。
「萩野」
 顕良の声が聞こえた。やはり、まだいくぶん掠れている。
 自分の下で漏らされた吐息や喘ぎや途切れ途切れの声を思い出し、鬼堂は箸を置いた。湯呑みに手をのばして、やや冷めた白湯を飲み干す。
「あら、どしたの。なんかのどに詰まった?」
 岷がちらりと、こちらを窺った。
「……なんでもねえよ」
 ぼそりと答えて、残っていた粥とあつものを一緒くたにして流し込む。
「うわ。行儀悪いよ、鬼堂ちゃん。お局さまに叱られるよん」
 知ったことかよ。粥ぐらい好きに食わせろ。ごん、と無造作に椀を膳に置いたとき。
 御簾がするりと開いて、萩野が出てきた。手には錦紗の包み。
「若さまからじゃ」
 すっ、と鬼堂の膝前に置く。
「……なんのマネだ」
 低い声で、訊く。
「カネは要らねえって言っただろ」
「それは、謝礼の話であろう。これは路銀じゃ。若さまのお心付け、ありがたくいただくがよい」
 ありがたく、だと?
 鬼堂は立ち上がった。御簾の中に踏み込みそうになるのをかろうじて抑え、縁に出る。ずんずんと進んで、自分の房に戻った。
 客人並みの部屋。派手ではないがしっかりとした造りの調度品が並んでいる。床の間近くにあった二階棚を、鬼堂は力まかせに蹴飛ばした。上に乗っていた巻物があたりに散らばる。
 鬼堂は房の真ん中に大の字になって転がった。言いがたい感情がとぐろを巻いている。
 なにがこんなに自分を苛立たせるのか。それはわからない。ただ、胸がかきむしられるような感覚が走って。
 御簾内の顕良が、妙に遠く感じた。つい数刻前まで、あいつはこの腕の中にいた。吐息を交わして、標を刻んで、深く深く繋がっていた。だが……。
「鬼堂ちゃーん」
 そろそろと、岷が房に入ってきた。
「……だいじょーぶ?」
 しっかり防御結界を張っている。鬼堂はぎろりと戸口をにらんだ。
「んなわけ、ねえだろ」
「だよねー。あー、もう、タイミング悪いったら」
 入り口付近に腰を下ろして、岷がぼやいた。
「路銀渡すにしたってさー、あの言い方はないよねえ。お局さまも、もうちょっと鬼堂ちゃんの性格把握しないと」
 ババアのことなんか、どうでもいい。俺たちを金で雇っているとしか思っていないのだから。気に食わないのはたしかだが、これまでもあんなやつらは大勢いた。というより、刺客を雇おうなどという輩は、みんな俺たちを道具としか思っていない。それにいちいち腹をたてていたら、こんな仕事はできない。
「これ、一応預かってきたけど……どーする?」
 懐から、ちらりと錦紗の包みを覗かせる。
「やるよ」
「へっ? ほんとに??」
 岷は目を丸くした。
「でも、きのうのカネと合わせたら、すんごい金額になるんだけど」
「結構なことじゃねえか」
「そりゃそうだけどさー。なーんか、しっぺ返しが来そうでコワイのよ」
「あとになってから半分よこせなんて、ケチなことは言わねえよ」
「そんなのはわかってるよー。鬼堂ちゃんとは長い付き合いだし。でも、丸取りすると寝覚めが悪いんだよねー」
 岷は防御結界を解いて、房の中に進んだ。鬼堂の横にちょこんと座る。
「じゃあさ、鬼堂ちゃん。道中の食いもん代とか宿賃とか、必要経費は全部オレ持ちってことで、どう? もちろん、新しい武具とか買うんなら、こっちから出すし」
「ああ。それでいいぜ」
 本当は経費も折半でよかったのだが、岷の気持ちもわからなくはない。とりあえず、承諾した。岷はほっとしたような顔をして、
「よーしっ。話がまとまったとこで、そろそろ準備しよっか〜」
 ぱっと立ち上がり、荷物をまとめに行く。鬼堂ものっそりと起き上がり、身の回りの品を整理しはじめた。


 出立のあいさつは、岷に行かせた。もう、仕事だけに集中しなければ。また西の対屋に行って、御簾ごしにでも顕良の気配を感じたら、冷静でいられる自信がなかった。
「鬼堂ちゃんも来ればよかったのに〜」
 山荘の裏口で、岷が言った。
「若さま、鬼堂ちゃんがいなくて、がっかりしてたみたいよ」
 余計なことは言わなくていい。鬼堂は荷物を担いだ。
「行くぞ」
「はいはい。もー、鬼堂ちゃんてば素直じゃないんだから」
 ぼそぼそと呟く。岷が大袈裟に肩をすくめたとき、裏門の脇のくぐり戸がことりと開いた。反射的に振り向く。そこには、浅葱色の小袖姿の顕良。
「あーらら」
 岷は顕良と鬼堂を見比べた。
「んーと、じゃ、オレ、お先に〜」
 すたすたと山路を行く。
「おい、岷……」
「ふもとの村で待ってるからねーっ」
 言いながら、印を組んだ。
 空気が渦巻き、岷の姿は瞬時に消えた。移動の術だ。馬鹿が。こんなとこで術を無駄遣いしやがって。
「鬼堂どの」
 顕良が、ゆっくりと近づいてきた。疲労の色濃い顔。あたりまえだ。一週間も床に伏していて、まともな食事を摂っていなかったのだ。やっと熱が下がって常食を摂れるようになった直後に、自分は顕良を抱いた。一度ならず、二度、三度と。
「これを」
 顕良は小さな守り袋を差し出した。
「ご無事をお祈りしています」
「要らねえよ」
 鬼堂は即答した。神仏の加護など、自分には無縁のものだ。あまたの命を奪い、血にまみれた身には。
 顕良はしゅんとして、下を向いた。小袖の襟元から、かすかに昨夜の名残りが窺える。
 触れたら止まらないことはわかっていた。このままここで、獣の所業に走るかもしれない。鬼堂は踵を返した。
「そのかわり……」
 背を向けたまま、続ける。
「後払い、しっかり払ってもらうからな」
 顕良のいらえを待たず、鬼堂は山荘をあとにした。