たまゆら  by 近衛 遼




第七帖

 カーン、カーン、カーン……。
 鬼堂は久しぶりに、薪割りをしていた。
 あのあと、顕良は熱を出して寝込んでしまい、それでも萩野を御簾内に入れようとはしなかったので、やむなく鬼堂が看護や食事の介助や、身の回りの世話をすることになってしまった。朝から晩まで間近に顕良の体温を感じることは、鬼堂にとってある意味、拷問に等しいものだったが、顕良が病に伏したのは間違いなく自分のせいである。背を支えられなければ座ることもできないほどに弱っていた顕良に、さすがの鬼堂もさらに手を出すことはできなかった。
 むろん、欲望はあった。が、ひねもす自分を頼りにし、身を預ける顕良の様子を見ていると、それだけで欲望の半分以上は満たされた。
 昨日、顕良はようやく平熱に戻り、傷めた右手も快癒して、鬼堂の助けを借りなくても食事がとれるようになった。そして、今日。鬼堂は約十日ぶりに外回りの仕事をしている。
 今朝、手水をすませた顕良は萩野を御簾内に入れ、装束を整えた。朝餉の席では岷に、後刻、笛を奏してほしいと申し入れ、以前と同じ日常が戻ってきたのだった。
「お世話になりました」
 朝餉のあと、鬼堂が御座所を出るとき、顕良は小さな声でそう言った。口元にはほんのりとした笑み。
「おうよ」
 短く答えて、背を向ける。房には萩野と岷がおり、それ以上の言葉は発せられなかった。
 まもなく夕暮れだ。今日は湯殿の用意をするのだろうか。顕良が伏せっていたあいだは、風呂を沸かさなかったのだが。
「鬼堂さん、もう終わりましたか?」
 厨女の晴が、格子の向こうから声をかけた。
「ああ、終わったぜ」
「萩野さまがお呼びですよ」
 けっ。なんだよ。……まさか、あれがバレたんじゃねえだろうな。岷のやつ、うっかりしたことをしゃべってなきゃいいが。
 岷は今日一日、顕良の側にいた。萩野も同席していたはずだから、もしかして……。
「鬼堂さん? どうしました?」
 晴が不思議そうにこちらを見ている。仕方ねえ。行くか。
「なんでもねえよ」
 鬼堂は斧を置いて、屋敷に戻った。


 萩野は西の対屋に続く渡殿にいた。
「なんか用かい」
「こたびの、若さまの御病のことじゃが」
 来なすったか。鬼堂は下腹に力を入れた。
 ばれたのなら、それはそれでかまわない。四の五の言うようなら、ちったあ痛い目を見てもらってもいいのだ。女子供に手を出すのは主義に反するが、いまさらここを出ていけと言われては困る。
「物の怪の仕業やもしれぬ」
「物の怪?」
 まるっきり予想外の話に、鬼堂は眉をひそめた。
「しかり。なんでもお館さまも、ここ何日かひどいお悩みにあらせられるとか……」
 都にいる清顕卿が、病気になったのか。しかし、それと顕良の件とはまったく関係はなかろう。そんなことは、鬼堂自身がいちばんよく知っている。なにしろ、顕良をあれほどまでに弱らせたのは自分なのだから。
「さきほど、お館さまの侍女をつとめている者から文が参ってな。この者はわたくしの遠縁にあたるのじゃが、若さまがここにお移りあそばされてより、ときおり館内のことなど知らせてもろうておる」
 なるほど。要するに、萩野の息のかかった侍女というわけか。
「ふーん。で?」
「先般、清興さまが刺客に遭われたあと、館内に火の玉が飛んだり急に格子や妻戸が壊れたりする異変が起こってのう。それでお館さまは高名な術者に悪霊祓いをお頼みあそばされたのじゃが……」
「失敗したってことかい」
「そのようじゃ」
 萩野は深くため息をついた。
「お館さまに取り憑いた物の怪が、若さまにも悪しき働きをなしているのではないかと思うてな」
「で、俺になにをしろって?」
「あの赤毛の者は、いくつもの術を扱うと聞いたが」
 岷のことを言っているらしい。萩野はいまだに、鬼堂たちを名前で呼んではいなかった。主上たる顕良が、敬称付きで呼んでいるにも関わらず。
「ああ。本人が言うには『超・超・超〜優秀』らしいぜ」
 とりあえず「超」を出血大サービスしておく。
「ならば、おぬしら、物の怪の正体を探ってきてはくれぬか」
 萩野は懐から巾着を出した。無造作に濡れ縁に投げる。ちゃりんと、金子の音がした。
「それでよかろう。不服があるなら、見事物の怪を退散させてから言うがよい」
 クソババアが。
 鬼堂は腹の底で毒突いた。どうせ俺たちは、金で動くチンピラだ。けど、金に尻尾を振る犬じゃねえ。
「要らねえよ」
 低い声で、鬼堂は言った。
「そんなカネ、反吐が出る」
「おぬし……」
「仕事は、やる」
 きっぱりと断ずる。
「物の怪だろうがなんだろうが、ぶった切ってやるよ」
 岷に呆れられるかもしれねえな。報酬なしで、こんなわけのわからねえ仕事を受けて。
「話がそれだけだったら、行くぜ」
「……待ちや」
 萩野は濡れ縁に降りた。巾着を拾って、差し出す。まっすぐに鬼堂を見据え、
「持っていくがよい」
「要らねえって言っただろ」
「おぬしが要らぬのならば、あの術者に渡してたも」
 口調が微妙に変わっていた。鬼堂は無言で、巾着を受け取った。
「しかと、頼みましたぞえ」
 言い置くと、萩野は西の対屋に戻っていった。


「へっっっ???」
 顕良と碁をさしていた岷が、茶色の目をこれ以上はないというぐらい見開いて、声をひっくり返した。
「なーによ、鬼堂ちゃん。お局さまの話、オッケーしちゃったの」
 岷はがっくりと肩を落とした。
「あーあ、またまた厄介なことになりそうだなー。オレ、ここで若さまと遊んでちゃダメ?」
「馬鹿言うな」
 鬼堂は巾着を岷の目の前に突き出した。
「なによ、これ」
「ババアが、おまえに渡せってよ」
「あらららら。なんか、すごくない?」
 岷は巾着の中身を確認した。
「で、鬼堂ちゃんはいくらもらったのよ」
「……断った」
「はあ?」
「だから、要らねえって……」
「うっそーっ。ギャラなしで、化けもの退治引き受けちゃったの〜??」
 赤毛をがしがしとかいて、岷は天井を見上げた。
「ま、鬼堂ちゃんには若さまが別払いしてくれるからいいんだろうけどさー」
「……おい」
 あわてて、釘を差す。不用意なことを言うんじゃねえ。
「あ、ごめーん」
 ぺろりと舌を出して、肩をすくめる。
「いまのは、聞かなかったことにしてね〜」
 それができりゃ、苦労はしねえよ。鬼堂は碁石を弄んでいる顕良に目を遣った。とくに気にしている様子はない。
 なんだよ、こいつ。あのことが公になっても、かまわないとでもいうのか。なんとなく割り切れない感情が渦巻いた。
 平然とした顔。それを崩したい欲求がむらむらと沸き起こる。
 いいぜ。おまえがそんな態度でいるなら。
 ここ数日の貸しを返してもらう。それでまた臥し所から起き上がれなくなっても、今度はおまえのせいだ。
 今日の昼間は、岷が笛やら月琴やら碁やらに付き合っていた。必然的に、今夜の宿直は鬼堂である。
 下腹に渦巻くものをいなしつつ、鬼堂は房を辞した。