たまゆら  by 近衛 遼




第五帖


 岷が顕良の書状を持って都に向かったのは、昨夜のこと。
 通常、この雲海山から和の都までは半日かかる。余人を介さずに春日伯爵に会って文を手渡し、さらにその返書を持ち帰るのは、早くても明朝になるだろうと鬼堂は考えていた。
「ふわーっ、びっくりした。散々苦労して、いくつも術使って、やーっと帰ってきたのにさー。いきなりバッサリじゃ浮かばれないよ」
「前触れもなく現れるからだ」
 鬼堂は刀を納めて、言った。
「それも、中庭のど真ん中に出てきやがって。どうせなら裏門に降りりゃよかっただろうが」
 あのあたりなら、人目につかない。
「あのねえ、鬼堂ちゃん。そーんな細かい調整ができるような術者はそうそういないのよ」
「おまえ、『超〜優秀』なんじゃなかったか?」
 岷の口調を真似て、言う。
「いくら超・超・超〜優秀でもね」
 やたらと「超」を強調する。
「前門の虎と後門の狼に追っかけられてごらんよ。逃げ出すだけで精一杯だって」
 どうやら、だいぶヤバい目に遭ったらしい。
「……なにがあった」
「伯爵さまん家に、幻術使いがいるみたいよ」
 茶色の瞳から、遊びの色が消える。
「屋敷の中までは、簡単に入れたけどね。そのあとが大変で」
 行けども行けども、同じ場所に戻ってきてしまう。空間を歪めて閉じ込める幻術のひとつだと、岷は説明した。
「封印結界の応用だろうね。オレが屋敷に忍び込んだのを知って術を発動したんだとすると、たぶん遮蔽結界の波長もキャッチしてたと思う」
 複数の結界術を操る者。たしかに、厄介な相手だ。
「で、伯爵には会えたのか」
「なんとかね」
 にんまりと、語を繋ぐ。
「謝礼たっぷりいただいちゃった手前、若さまの手紙だけはちゃんと届けなくちゃと思ってさ。ちょっと危ない橋を渡ってきたよ」
 幻術に行く手を封じられた岷は、仕方なく他人の意識に侵入することにした。清顕卿の侍女の体を借りて、顕良の文を届けたのだ。
『時間がないからさ。返事は口頭でいいよ』
 侍女の口から出るさばけた男言葉。清顕は一瞬で事情を察したらしい。急ぎ文を読むと、侍女の姿をした岷に言った。
『顕良に伝えよ。今後、何事が起ころうと都に戻ってはきてはならぬ。たとえわしが、はかなくなったと聞いたとしても』
『どーゆー意味よ』
『春日の家のことは、わしが収める。知らせを待て、と』
『よーするに、若さまに動くなって伝えればいいわけ?』
『しかり』
 重々しく、清顕は言った。岷はそれを聞いて、侍女の中から離れた。
「意識飛ばしてるあいだは、本体はほったらかしだからね。ぐっさりやられてたら、どうしようかと思ったよ」
 幸い、岷の本体は無事だった。が、そのあと、屋敷から脱出するのがまた大変だった。
 幻術によって作られた空間を飛び出すのに、いくつもの破砕印を組まねばならず、やっと封印を解いたと思ったら、春日家の選りすぐりの衛士たちが追ってくる。それをかわして屋敷の外に出れば、今度は市中警備の兵衛府の者たちに取り囲まれた。
 たかが文遣い。されど文遣い。もしかしたら、鬼堂と一緒にターゲットを狩ってる方がよっぽどラクかもしれない。そんなことを考えながら、なんとか都を抜け出してきたのだった。
「そりゃ、まあ、ご苦労だったな」
「こんなことなら、半分なんて言わずにぜーんぶもらっときゃよかったよ」
 昨夜、顕良が文遣いの謝礼として差し出した金子のことを言っているのだろう。鬼堂は口の端を持ち上げ、
「事情を説明すりゃ、追加料金が取れるんじゃねえか?」
「ふーん、鬼堂ちゃんはそれでいいの」
 ちらりと横を見上げて、岷は続けた。
「連歌とか月琴とか笛とか写経とか、タイヘンだったんじゃないのー?」
「……んなこと、してねえよ」
「あらら。じゃ、今日一日なにしてたのよ」
「寝てた」
「へっ? 鬼堂ちゃん、若さまのコトうっちゃって、ふて寝してたの〜? あ、それとも、晴ちゃんに手ぇ出したとか……」
 厨女の晴は花も恥じらう十八である。
「うーん、晴ちゃんは鬼堂ちゃんの好みじゃないとタカくくってたんだけどなー。こんなことなら、もっと早くに口説いときゃよかったかも」
 こいつ、ああいうおぼこい娘に弱いのかよ。花街で遊ぶときは、海千山千の妓女を選ぶくせに。
「言っとくがな」
 誤解されては、たまらない。
「俺はあの娘に、指一本触れてねえぞ」
「え、ほんと? よーかった」
 心底、ほっとしたように岷は言った。
「じゃあさ、単に昼寝してただけってコト?」
「話は最後まで聞け。寝てたのは、あいつの方だ」
「若さまが?」
 茶色の目を丸くする。
「へー、あの、毎日きっちり日課をこなす若さまがねー。どっか具合でも悪かったのかな」
「さあな」
 その原因を作ったのは間違いなく自分だが、それは言わないことにした。
「で、いまは?」
「なにが」
「若さまだよ。起きてるの」
「ああ」
「だったら、報告しなくちゃねー」
 たしかにそうだ。清顕卿の伝言は顕良の今後を左右するものであろうから。
 岷は履物を脱いで、濡れ縁に上がった。西の対屋に向かう。鬼堂もそのあとに続いた。


 鬼堂たちが房に入るのと、萩野が出てきたのはほぼ同じだった。萩野はちらりと岷を見て、
「そなた、早かったのう」
 萩野も鬼堂と同じく、岷の帰還はいま少しあとだと考えていたらしい。
「イロイロあってさー。もう、クタクタなのよ。晩飯、早めにしてね〜」
「……そのつもりじゃ」
 顕良は朝から食事を摂っていない。夕餉の時間が早まるのは必然と言えた。
「なーんか、お局さま、今日は妙にやさしくない?」
 岷は萩野を「お局さま」と呼んでいる。ふたりは顕良の前にすわった。御簾は下ろされたままだ。
「ご苦労さまでした」
 かろうじて聞こえるぐらいの声で、顕良は言った。絹の夜着に淡い藤色の掛衣をまとい、だるそうに脇息にもたれている。
「若さま、調子悪いみたいだけど、どーしたのよ」
 岷が心配そうに訊いた。
「大事ありません」
 ひっそりと、顕良は笑った。
 ふん。そうかい。「あれ」が、たいしたことなかったってか。ぐっと奥歯を噛み締め、鬼堂は御簾の奥をにらんだ。
「それよりも、父上は……」
「だーいぶ、大変みたいよ」
 岷は自分が見聞きしたことを告げた。当然ながら、清顕卿の言伝も。
「そう……ですか」
 深く息をついて、顕良は呟いた。
「わかりました。では、あらためてお願いします」
 居住まいを正して、顔を上げる。
「おふたかたとも、いましばらくここに留まってください」
「オレはいいけどさ〜。どーする、鬼堂ちゃん?」
 横を見遣って、岷が問うた。
「どーせ、前の仕事は反故になってるよーなモンだしさ。ここは若さまに、新しい依頼主になってもらうっつーことで」
 まあ、それが一般的かつ建設的な考え方だろうな。だが、そんなうまい話を鵜呑みにするほど、俺はおめでたくないぞ。
 使い捨てるつもりかもしれない。春日家の争いに、後腐れのない流れの刺客を取り込んで、目的を達したあとは役人に引き渡す。いかにも、ありがちな話だ。
 もっとも、だからといってそのために、自分の体を好きにさせるというのは解せなかった。顕良にその趣向があるというなら、まだわかる。閨に誘い込み、自分の手足となるように仕向ける。そういう方法をとる人間を、鬼堂は男女を問わず何度か見たことがあったから。しかし、顕良は違った。
 おそらくだれも触れたことのないだろう、固い体。知識はあったかもしれないが。
 その中に押し入り、無理矢理に開いた。苦痛だけを強いて、辱しめて、支配した。その俺を、まだ側に置くというのか。
「失礼いたしまする」
 縁から、声。萩野が夕餉の膳を運んできた。予想通りの精進物だ。しかも、薬湯までついている。
 ことりと、鬼堂の前に膳が置かれた。毒見かと思って箸に手をのばすと、萩野はそれを遮った。
「お毒見はよい。早うこれを、若さまの御前へ」
「はあ?」
「若さまのお食事の介添えも、おぬしの役目であろうが」
 萩野はまだ、御簾内を許されていないらしい。仕方なく、鬼堂は膳を手に立ち上がった。岷はびっくりしたような顔をして、それを見ている。
 御座所に入り、膳を置いた。
「ほらよ」
「……すみませんが、料理を細かく崩してもらえませんか」
 脇息にもたれたまま、顕良は言った。
「利き腕が使えなくて……箸が持てないものですから」
 昨夜、褥で腕をひねりあげたとき、筋を痛めたのかもしれない。
 鬼堂は箸を取った。器に盛られた料理を、食べやすい大きさにしていく。顕良は左手で、匙を取った。
「ありがとう」
 芋や豆腐などを少しずつ口に運ぶ。次にあつものの椀に手をのばしたが、こわばった右手は器を持ち上げることができなかった。
 萩野が御簾の向こうでこちらをじっと見ている。わかったよ。やりゃいいんだろ。鬼堂はむっつりと口を一文字に結んだまま、汁椀を手にした。顕良の口元まで、それを運ぶ。
 ごくり。ひとくち飲み込む。顕良は、ほうっと息をついた。
 濡れた唇。ゆうべ、鬼堂はそれを喰らい尽くした。震える舌の感触が甦り、どっと唾が出る。
 どうするよ。このぶんじゃ、きっと……。
 おとなしく宿直など、していられるはずがない。今夜は、岷がいるというのに。
 以前に男を抱いたときには、こんなことはなかった。一流所の陰間茶屋で、そこそこ名の売れた陰間が相方だったのだが。
 その陰間はじつに情を尽くし、こちらの要求に丁寧に応えてくれた。美しさもさることながら、話術も巧みで、しかも押しつけがましくなくて、この道にのめり込む男たちの気持ちもわからなくはないと思ったものだった。
「鬼堂どの?」
 顕良が首をかしげている。椀を持ったまま、動かなくなったのを不審に思ったのかもしれない。鬼堂は汁椀を膳に戻した。顕良はふたたび、菜(おかず)を口に運んでいる。鬼堂は意識的に視線を外した。
 まったく、情けない。十五や二十のガキじゃあるまいし。こんな感覚は、はじめて女を知って以来のことだ。
「えー、今日は肉も魚もないの〜? オレ、すっごく疲れて帰ってきたのにー」
 御簾の外で岷が文句を言っている。その声を聞きながら、鬼堂は空腹と、もうひとつの渇きに耐えていた。