たまゆら  by 近衛 遼




第四帖

 鬼堂には衆道の趣味はなかった。話の種にと、何度か陰間茶屋で遊んだことはあるが、ふだんは同性に欲情することはない。ゆえにこれは、単純に怒りによる昂ぶりだと思った。
 狭い場所に強引に身を進める。息を飲む音。乱れた黒髪が敷布に散る。
 苦しいはずだ。手加減などしていない。陰間のそれとは違い、受け入れる準備のまるでできていない体に楔を打ち込んでいるのだ。動くたびに、細い体ががくがくと震えた。
 顕良の顔から、色が失われていく。そろそろヤバいかもな。ほら、もう限界だぜ。こいつを殺してもいいのか?
 目に見えぬ相手に向かって、無音の言葉を発する。が、先刻の「気」は、どこにも感じられない。
 どういうことだ。一度ならず二度までも、こいつの命を守ってあれほどの攻撃結界を張ったくせに。いま出てこないと、手遅れになるかもしれねえぞ。
 腰を抱える。大きく揺らす。反射的に、顕良が小さな叫びを上げた。
「あ……っ……ああっ」
 鬼堂の腕を掴んでいた手に力が入った。爪が皮膚に食い込んでくる。背筋に、強烈な快感が走った。
 抱いている。
 はじめて、鬼堂は思った。俺はこいつを抱いている。
 中心に、いままでとは違う感覚が生まれた。包まれた部分が熱を持つ。
 鬼堂は動きを止めた。じんわりと、脈打つものが全身に広がっていく。
 顕良がなにごとか呟いた。掠れた声。視点はもう定まっていなかった。うわ言のようなそれを、鬼堂は口付けで吸い取った。
 ふたたび、ゆっくりと動き出す。鬼堂の熱情が放たれたのは、それからまもなくのことだった。


 結局、なにも起こらなかった。これほどのことをしても。
 鬼堂は、気を失った顕良を控えの間に移した。朝までに褥を元通りに整えねばならない。
 汚れた敷布を片付け、予備の夜具を寝所に運ぶ。顕良を褥に戻し、自身も宿直の場所に座り直したときには、もう夜は白々と明け始めていた。
「若さまは、いかがあそばされたのであろうか」
 日が昇り、手水の用意をして西の対屋にやってきた萩野が、眉間にしわを寄せて言った。ちなみに、正殿の寝所はまだ改装中である。
「若さまにお仕えしてもう十五年になるが、御簾内を許されなんだのははじめてじゃ」
 どうやら、顕良は萩野が房に入るのを拒んだらしい。
 そりゃ、そうだろうな。見えるところに傷などつけていないが、あの状態では起き上がることすらままなるまい。
「お加減がお悪いなら、朝餉を作り直さねばならぬが……おぬし、なんぞ事情を知らぬか」
「知らねえよ」
 鬼堂はうそぶいた。言えるかよ、あんなこと。
 萩野はまだしばらくあれこれ考えていたが、やがて厨に精進物を用意するよう命じるため、西の対屋をあとにした。
 初秋の風がさわさわと中庭に流れる。几帳の脇には、萩野が運んできた手水鉢が置かれている。鬼堂は綿布と手水鉢を手に、寝所を覗き込んだ。
「おい」
 御簾の前で声をかける。
「入るぞ」
 返事は待たなかった。御簾を上げて枕辺に進む。どっかりと腰を下ろし、
「もうすぐ朝飯だぜ」
 昨夜のことなど、なかったかのように言ってみた。
「……い……らぬ」
 か細い声が聞こえた。背を向けているので、表情はわからない。
「え? なんか言ったか?」
「要らぬ。朝餉など……」
 消え入るような語尾。ま、そりゃそうだよな。あれだけ貶められて、正気でいるのが不思議なぐらいだ。昨今の貴族なんてものは、武官であっても生首のひとつも見せりゃ失禁してぶっ倒れるのが相場だから。
「そうかい。じゃあな」
 俺のことなんざ、見るのも嫌なんだろう。そう思って立ち上がろうとしたとき、いきなり顕良が顔を上げた。
「……っ!」
 上体を起こそうとして、眉根を寄せる。思わず、手をのばした。ほっそりとした肩を支える。あからさまな拒絶があると思ったが、顕良はそのまま鬼堂に体を預けた。
「……あなた……でしたか」
 大きく息をつく。
「すみません。ぼんやりしていて……。手水を、手伝ってくれませんか」
 白い手が鬼堂の腕にかかった。途端に、記憶がフィードバックする。
 体を繋いでいたときの感覚が戻ってきた。まずい。まもなく萩野が朝の膳を運んでくるだろう。鬼堂は顕良から離れた。
「起きられるんなら、自分でやれ」
 手水鉢を枕辺に近づける。顕良はゆるゆると、身を起こした。やはり、かなりつらそうだ。
 どういうつもりだろう。あんな目に遭ったというのに、自分に介添えを頼むとは。
 鬼堂は寝所の隅で、顕良が手水を済ませるのを待った。いまにも倒れそうな様子だ。綿布で顔を拭いたあと、ふたたび夜具に沈み込むように横になった。
 たしかに、朝飯が食える状態じゃねえな。
 鬼堂は無言で、手水鉢を下げた。御簾の外に出たところで、朝餉を手にした萩野が房に入ってきた。
「なんじゃ、おぬし。御簾内はならぬと若さまの仰せであったに」
「へえ。そうだったかい」
 そ知らぬ顔で、言う。手水鉢をごとんと置いて、
「また寝ちまったみたいだぜ。メシはあとにした方がいいんじゃねえか?」
「……お手水は、済まされたのか」
「ああ」
「さようか。……ご苦労じゃったな」
 めずらしくねぎらいの言葉を口にして、萩野は膳を差し出した。
「なんだ?」
「わたくしは本日、若さまのお側に侍ることはかなわぬゆえ、おぬしが代わりにお仕え申し上げるように」
「はあ?」
「手水を終えられたということは、若さまがおぬしに御簾内をお許しになったということであろう。心してご奉公せよ」
 このババア、思い切り勘違いしてやがるな。てめえらと違って、御簾ん中に入るのにいちいちお伺いをたてたりするかよ。だいたい、俺は刺客なんだぞ。
 そこまで考えて、鬼堂は思考を中断した。
 殺せたのに。
 そうだ。殺せたはずだ。ゆうべ、あのあとならば。
 顕良をガードしていた「気」は消えていた。顕良自身は意識を失っていて、それこそ赤子の手をひねるようなものだったのに。
 なぜ、やらなかったのか。
 いまの鬼堂には、明確な答えを出すことはできなかった。


 顕良は昏々と眠り続けた。寝息は穏やかだったが、時折、なにごとか呻くように呟いてかぶりを振る。おそらく、昨夜の悪夢にうなされているのだろう。自分がどれほどひどいことをしたのか、鬼堂には十二分にわかっていた。
 夕刻ちかくになって、顕良はようやく褥から出た。
「萩野を、呼んできてください」
 まだ声は掠れていた。鬼堂は局に控えていた萩野に顕良の言伝を伝え、自分は庭に出た。
 腹が減ったな。
 じつは鬼堂は、朝からなにも食べていなかった。ここに来てからは「毒見」という名目でつねに顕良とともに食事をとっていたので、鬼堂個人として食べ物を口にしたことがなかったのだ。むろん、厨に行って晴に頼めば、湯漬けや干し芋ぐらいは食べられただろうが、顕良が目覚めるのを待っているうちに、いつのまにか日は西に傾いてしまった。
 ったく、馬鹿馬鹿しい。この俺が、空きっ腹抱えてるなんてよ。ま、もうすぐ晩飯の時間だ。魚っ気はないにしても(朝餉の献立からして、夕餉も精進物に違いない)、メシにありつける。厨からはすでに、あつものを炊くいい匂いがしていた。
 夕暮れの風は、朝とはまた違った空気を運んでくる。虫の音がどこからともなく聞こえてきた。
 いくぶん涼しい風が渡殿を吹き抜けたとき。
 鬼堂は、明らかに空間の歪む異様な気配を感じた。瞬時に刀を構える。その真ん前の空間が弾けて、よく見知った顔が現れた。
「うわっ……まっ……待ってよ、鬼堂ちゃんっ」
 白光りする刃を目の当りにして、慌てて防御結界を張ったのは、昨夜、都に文遣いに行ったはずの岷だった。