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たまゆら by 近衛 遼
第三帖
カン、カン、カン……。
手際よく、薪を割る音が響く。
都の南東にある雲海山。その中腹にある春日家の山荘で、鬼堂はもう半月あまりを過ごしていた。
「鬼堂さん、そこが終わったら、湯殿の用意をするようにと萩野さまがおっしゃってましたよ」
厨女(くりやめ)の晴が、洗い終わった野菜を運びながら言った。
ちっ、萩野か。あいかわらず、うるせえババアだな。んなこたぁ、わかってるよ。毎日、判で押したような暮らしをしてんだから。
「まだ四半時ばかりかかるぜ」
手を休めることなく、答える。
「じゃ、そうお伝えしておきますね」
小柄な厨女は、明るくそう言うと屋敷の中に入っていった。春日家が地方に所有している荘園から奉公に来ているらしいが、なかなかの働き者だ。
それにしても、いったいなんで、こんなことになっちまったんだ。ガキの首ひとつ獲るだけの簡単なヤマだと思っていたのに。
あの厄介な結界さえなければ、とっくに仕事は終わっていたはずだ。岷によれば、あれは顕良自身が張っているものではなく、余所からなんらかの方法で張られているものらしい。その大元を探るために、あえてこの山荘に留まったのだが、半月が過ぎても術の分析は進んでいなかった。
だいたい、岷のやつ、ほんとにやる気があるのか。
赤毛の相棒は、足の腫れがひいたあとも痺れるだの痛いだのと言って、顕良に湿布してもらったり、炎症止めの薬湯を作ってもらったりしている。
「だーって、若さまに近づいて警戒心を解かないと、結界や術の解析なんてできないでしょー」
けろりとそんなことを言っていたが、実際は上げ膳据え膳の生活を楽しんでいるのかもしれない。なにしろ天下の春日家。朝夕の食事も昼の茶菓もめったに食べられないようなものばかりで、岷と鬼堂も「毒見」という名目で顕良と同じものを食している。
当初、ひどい捻挫で歩行が困難だった岷は、薪割りや水汲みといった端仕事はせず、もっぱら顕良と碁を打ったり楽器の演奏をしたり歌を詠んだりしていた。どこで詠歌や楽器を覚えたのか不思議でならないが(碁はおそらく賭け碁だろう)、「潰しがきく」と言っていたのはホラではなかったのだと納得した。とはいえ、自分ばかりが力仕事をしているのは癪にさわる。
「おまえもたまには、水汲みや掃除ぐらい手伝え」
先日そう言うと、
「んー、やってもいいけどさー。じゃあ鬼堂ちゃん、連歌とか月琴とか笛とか写経とか、若さまに付き合えるの〜?」
栗色の目をきらりと光らせて、岷。
……できるかよ、そんなもん。碁ならなんとか、なるかもしれねえが。
結局、外回りの用事は鬼堂、顕良の無聊を慰めるのは岷という役割が決まってしまった。まあ、これも岷が例の結界を解くまでの辛抱だ。そう思って、下男のような仕事を続けてきたのだが、そろそろ限界だ。
あの攻撃結界を抑えられないなら、こちらの防御結界をもっと強くして押し切るしかない。今夜あたり、岷に話を振ってるか。
薪割りを終え、鬼堂は風呂の用意をするため、湯殿に向かった。
いつものごとく、鬼堂と岷は顕良と夕餉をともにした。はじめのうち、萩野は鬼堂たちを同席させることに反対したが、毒見ということでしぶしぶ承諾したのだ。
「若さま」
食事の途中で、萩野が房に入ってきた。
「お館さまからお文にございます」
「父上の?」
春日伯爵、清顕卿からの書状らしい。顕良は折り畳まれた文さらりと広げた。伏し目がちの双眸に、暗い陰が宿る。
「……兄上が、刺客に襲われたらしい」
「清興(きよおき)さまが?」
萩野の顔色が変わった。清興は清顕の正室の子で、顕良にとっては異母兄にあたる。
「して、清興さまは」
「お命に別状はないようだ」
顕良は文を脇へ置いた。
「まさか、お館さまは若さまをお疑いなのでは……」
萩野は声を震わせた。
「若さまこそ、何度もお命を狙われておりますものを。それもこれも、北の方さまが若さまをお厭いあそばして……」
「お方さまは、ぼくの母代(ははしろ)だよ」
「されど、若さまの母君は……」
「萩野」
ぱちりと、顕良は扇を鳴らした。
「滅多なことを申すでない」
いつになく厳しい口調。萩野は平伏した。
「下がれ」
抑揚のない声で、顕良は命じた。はじめて聞く声だった。それまで顕良は、奉公人に対しても常に丁寧に接していたから。
萩野は首を垂れたまま、戸口まで下がった。縁でふたたび額づき、面を上げることなく房を辞す。なんとも言えぬ重い空気が流れた。
「……見苦しいところを、お目にかけてしまいましたね」
ひっそりと、顕良。
「せっかくの夕餉が冷めてしまった。申し訳ありません」
「いーのいーの。若さまん家にもイロイロ事情はあるんだろうしさー」
岷がぴらぴらと箸を振って、笑った。
「オレたちには関係ないもんね〜」
その「事情」とやらのおかげで、仕事が回ってきたんだけどな。鬼堂はぬるくなった粥をすすりながら、思った。
春日家のお家騒動は、嫡子の清興と庶子である顕良の周囲で複雑に絡み合っているらしい。清興にも刺客が送られたところを見ると、春日家の中でも大きく二派に分かれているのだろう。あるいは、清興も顕良も廃そうと画策している三番目の勢力があるのかもしれないが。
「岷どの」
清顕からの文を懐に仕舞って、顕良は言った。
「足の具合はいかがですか」
「へ? うーんと、まあ、ふつーに歩くぶんには大丈夫かな」
とっくに完治しているくせに、しらじらしい。鬼堂は黙々と食事を続けた。
「では、文遣いをお願いしたいのですが」
「文遣い? いいけど、どこに行くのよ」
「都の父上のもとに」
顕良は立ち上がった。
「いまから文をしたためます。ほかの者に気づかれぬように、届けていただけますか」
「えーっ。てことは、伯爵さまんとこに忍び込んで、こっそり手紙を渡してこなくちゃいけないワケ?」
「はい。お願いします」
遮蔽結界を張れる岷なら、造作もないことだろう。顕良はうしろの厨子(ずし)から袱紗に包んだものを取り出した。
「謝礼はこれでよろしいですか」
「うわ。こんなに?」
岷の目がまん丸になった。
「んー。ウレシイんだけど、これ全部もらったら、あとで鬼堂ちゃんにフクロにされそーだから、半分だけにしとくね〜」
ちろりと横を見て、続ける。
「てなわけで、鬼堂ちゃん。オレがおつかいに行ってるあいだ、若さまと仲良くしててよ」
仲良く、だと? 鬼堂は箸を置いた。
「なにが言いたい」
「だーかーらー、ニガテかもしんないけど、連歌とか月琴とか笛とか写経とか……」
「やらねえよ」
「そんなこと言わずにさー」
「しつこい」
鬼堂は立ち上がった。
「あらら、どこ行くのよ」
「見回りだ」
これもすでに日課になっている。まったく、刺客のはずの自分が、なんでこんなマネをしなきゃならねえんだ。
「お気をつけて」
顕良の声が背にかけられた。それを無視して、鬼堂は外に出た。
夜半。岷は顕良の文を携えて都に向かった。
今日明日はひとりで宿直をせねばならない。鬼堂は顕良の寝所の脇で、刀を手に座していた。
宿直とはいえ、なにもひと晩中起きている必要はない。岷ほど強力なものではないが、鬼堂とて防御結界ぐらいは張れる。寝所付近に結界を張り、それが脅かされるようなことがあれば刀を振るえばいい。
どれぐらいたっただろうか。浅い眠りの中、鬼堂は微妙なぶれを感じて目を覚ました。
だれかが、寝所の中にいる。顕良以外の「気」。
防御結界を破られたのか。いや、それならもっと衝撃があるはずだ。
入り込まれたのかもしれない。結界の不安定な部分を突かれて、侵入されたのだ。
刀を抜く。それを構えて、鬼堂は寝所を窺った。暗い。音もほとんどしない。それでも、たしかになにかの気配がする。
一か八か。鬼堂は奥歯を噛み締めた。こいつは俺の獲物だ。ほかのやつに獲られてたまるか。
バッと御簾を跳ね上げ、房に滑り込む。褥の側の一点に向かって刃を振り下ろす。
「だめです!」
叫びとともに、閃光が走った。一瞬、視界が真っ白になる。激しい衝撃が全身を貫いた。
「くっ……!」
庭まで飛ばされるかと思った直後、鬼堂の体は御簾の横に落とされた。
「鬼堂どの……」
顕良が這うようにして近づいてきた。
「大丈夫ですか。どこか怪我でも……」
「……いまのは、なんだ」
最初に顕良に対峙したときと同じく、刀は真っ二つになっていた。
「ここに、だれかいただろ」
「いいえ、そんなことは……」
「ごまかすな!」
意識するより前に、手が出ていた。鈍い音。細い体は褥に倒れた。
「おまえを守ってるだれかが……いや、『なにか』がいるんだろ」
先刻感じた「気」。鬼堂は術者ではないが、それでもあれだけの圧迫を感じたのだ。その正体を、こいつが知らないはずはない。
鬼堂は顕良にのしかかった。
「白状しろ。あれはなんだ」
「ぼくを守る者は……守ってくれた者は、みんな死にました」
わずかに差し込む月明りが、白い頬を照らした。
「だれも……死んでほしくなかったのに」
まだ言うか。そんな曖昧な言葉で、この俺を丸め込めるなんて思うな。
何者かはわからないが、「それ」はこいつに危害を加えようとすれば出てくるらしい。ならば。
鬼堂は顕良の腕をねじり上げた。
「……っ」
秀麗な顔が歪む。
「呼べ」
「なに……を……」
「助けを呼べ」
「鬼堂どの……」
「早く呼べ!」
もう少しで骨が折れるというところまできても、顕良は声を上げなかった。
貴族のガキのくせに、強情な。
鬼堂は手を放した。上体が崩れる。大きく息をついているその肩を掴んで、絹の夜着を引き剥いだ。均整のとれた、やや細身の肢体が露になる。
「あ……」
潤んだ双眸が驚きの表情を浮かべる。
さっさと出てこい。でないと、こいつがどういうことになるか。
そして鬼堂は、顕良に最初の標を刻んだ。
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