たまゆら  by 近衛 遼




第二帖


 館の中は暗かった。それでも顕良は、まるで昼間のように几帳の脇をすりぬけて奥へと入っていく。
「ねえねえ、こっちはケガしてんのよ〜。もっとゆっくり歩いてよ」
 岷が足をひきずりながら抗議した。顕良は歩を進めたまま、
「すみません。兵衛府の衛兵に見られてはいけませんから……ああ、萩野」
 奥から、明かりを手にした侍女が出てきた。白髪まじりの黒髪をきっちりと結い上げ、背筋をしゃんとのばしている。
「若さま! いずれへおいでにございましたか。おひとりで表へいらしてはなりませぬと、あれほど申し上げておりましたのに……」
 萩野と呼ばれた侍女は、ちらりと鬼堂たちに目を遣った。
「おぬしら、何者じゃ。見かけぬ顔じゃの」
 懐剣を手に、誰何する。
「いいんだ、萩野」
 顕良は微笑みを浮かべて、それを遮った。
「この人たちは、ぼくのせいで怪我をしてしまった。湯と薬籠の用意を」
「……はい、ただいま」
 いまひとつ納得できないようではあったが、萩野は懐剣を納めて奥へと下がった。
「こちらへ。萩野はぼくの腹心の侍女です。ご心配なく」
 だれも心配なんかしてねえよ。
 鬼堂は心の中で吐き捨てた。いざとなりゃ、このガキもババアもまとめて始末すればいい。あのわけのわからない結界が厄介だが、岷の防御結界があればなんとかなるはずだ。
 とりあえず、兵衛府の役人が引き上げるまではおとなしくしておくか。そう考えて、鬼堂は顕良のあとに続いた。


 予想に反して、顕良の処置はじつに行き届いたものだった。
「腫れが引くまでは、動かさないでくださいね」
 岷の足首を固定しながら、顕良は言った。
「痛むようなら、鎮痛剤を処方しますが……」
「いらねえよ」
 横から、鬼堂が言った。
「飲み薬なんざ、なに入れられるかわかったもんじゃねえ」
「もー、鬼堂ちゃんたら。なにもそこまで言わなくてもいいじゃないのー」
 岷がぴらぴらと手を振った。
「せーっかく、いろいろ手当てしてもらったのにさあ。それに、足腫らしてるのはオレの方よ。鬼堂ちゃんはかすり傷じゃん」
「ふん。それぐらいで泣きごと言うんじゃねえ」
 これまで数々の修羅場をくぐりぬけてきた二人である。捻挫や打撲ぐらいは日常茶飯事だ。
「若さま」
 戸口に、萩野が現れた。
「兵衛府の大夫どのがお越しにございますが」
「直々にか」
「はい。いかがいたしましょうか」
 先刻、顕良は兵衛府の衛兵に、館内に立ち入ることまかりならぬと申し渡していた。それゆえ、兵衛府の長が出張ってきたのだろう。
 顕良はしばらく思案していたが、
「お通し申し上げるように。……ああ、そうだ。御簾は下げておいてくれ」
「はい」
 萩野は顕良の指示通りに御簾を下ろした。廊下に出て、平伏する。
 しばらくして、正装に身を包んだ男がずかずかと房に入ってきた。
「顕良どの、こたびはまた難儀なことであったな」
 御簾の前にどっかりと腰を下ろす。
「このあたりも物騒になったゆえ、そろそろ都へ戻られてはどうか。父君もご心配であろうに」
 兵衛府大夫、菅行昌(かん ゆきまさ)は菅子爵家の当主で、春日家とは縁戚関係にある。行昌の正室は春日家当主、清顕の妹だった。
「菅大夫におかれましては、わざわざのお運びいたみいります。されど、賊はもう退散いたしましたゆえ……」
「衛士どもが根こそぎ討たれたというではないか。なんとも恐ろしいことじゃ。とりあえず、今宵はわしの配下の者を警護に着かせるゆえ、お心安らかになされよ」
「いいえ、それは……」
 顕良は、ちらりと鬼堂たちを見遣った。
「ここにおります者たちで、間に合うと存じます」
「おい、おまえ……」
 思わず口をはさみかけた鬼堂の眼前に、ぴしりと扇が宛てられた。
「それより、今宵、ここで命を落とした者たちを葬らねばなりません。菅大夫、手配をお願いできますか」
 なんだ、これは。この俺が、扇一本で動きを封じられている。
 鬼堂は唇を噛んだ。先刻の攻撃結界といい、この緊縛術のような術といい。
「おお、そうじゃな。さればさっそく……」
 行昌はいくつかの手順を確認したあと、房を出ていった。
「悪いおかたではないのだが……」
 完全に気配が消えると、顕良はほっと息をついて扇を下ろした。途端に戒めが解ける。
「すべからくご自分の思うようになさらないと気がすまないのが、困ったものです」
 顕良は小さく笑った。そのすぐうしろで、岷が大きく息をついている。どうやら、鬼堂と同じく金縛りのような状態にあったらしい。
「ふわーっ、びっくりした。若さま、なんでもいきなりなんだもん。動くなーとか、しゃべるなーとか、言ってくれりゃいいのに〜」
「すみません。まさか菅大夫が、兵衛府の者をここに置くなんて言い出すとは思ってなかったものですから……」
「なんで断ったんだ」
 低い声で、鬼堂は訊いた。
「え?」
「兵衛府の衛兵なら、私兵と違ってきっちり訓練を受けてるはずだろ。願ったりかなったりじゃねえか」
「今日、骸となった者たちも、正規の訓練を受けた衛士でしたよ」
 指先で扇を弄びながら、顕良は言った。
「それでも、だめだった」
 つらそうな顔。
「ぼくのために、なんの罪科もない者が死んでいく。ぼくはそれを見ていることしかできなくて」
 ふっ、と、顕良は鬼堂に視線を移した。
「あなたが刀を向けたとき、やっと死ねると思ったのに」
「ふざけんな。あんなにすげえ攻撃結界を張りやがったくせに」
「あれは……」
 言いかけて、顕良は下を向いた。
「ちょっとちょっと、鬼堂ちゃん。さっきも言ったけどさー」
 岷がこそっと耳打ちする。
「あれは若さまの結界じゃないよ」
「だとしても、俺の動きに反応して張られたのはたしかだ」
 死ねると思ったなどと、寝惚けたことぬかすんじゃねえ。
「んー、そうだよねえ。てことは、若さまと同調してるだれかの仕業ってことになるんだけど……」
 栗色の目が、くるりと回る。
「そのへんの波長は、ぜーんぜん掴めないのよねー」
 肝心なところで役にたたないやつだな。鬼堂はじろりと、赤毛の相棒をねめつけた。
「そんな顔しないでよー。いくらオレが超〜優秀だからって、一目で術の分析なんかできるワケないでしょ」
 何日かかければ、できるかもしんないけどね。
 いたずらっ子のような瞳が、そう告げている。鬼堂は無言で頷いた。結界の大元がどこかわかれば、それを解除することも可能だ。
 急ぐことはない。顕良は自分たちを、この館の衛士だと公言したのだ。兵衛府大夫の前で。ならば、いましばらくここに留まって、結界の性質を見極めてやろう。そして、そのうえで当初の目的を達すればいい。
「若さま、寝所のお支度が整いました」
 萩野が戸口で言上した。
「西の対屋はいささか狭うございますが、どうかご辛抱あそばされて」
 どうやら、先刻の襲撃で正殿の寝所が使えなくなったらしい。
「かまわないよ。遅くまでご苦労だったね。おまえももう休んで」
「なにを仰せられます。お側仕えの者が皆、はかなくなってしまいましたものを。今宵はこの萩野が、宿直いたしますゆえ……」
「それは、この者たちに命じてある」
 またしても、勝手なことを。
 今度は反論する気もおきなかった。好きにすりゃいい。俺たちに宿直をまかせて、いつまで無事にいられるかな。岷があの結界を解くことができれば、おまえの命はない。
「ああ、そうだ」
 顕良が、ふとこちらを向いた。
「あなたがたのお名前を、まだ伺ってなかったですね。ぼくは……」
「春日顕良」
 鬼堂が言った。
「それぐらい、知ってるよ」
 自分が殺す相手の名前ぐらい。
「それは……そうですね」
 漆黒の双眸が愁いの色を帯びる。
「では、あなたがたは?」
「オレは岷っていうの〜。ヨロシクねっ」
「おい、岷……」
 マジに答えるやつがあるか。
「いいじゃんいいじゃん。名前ぐらい、減るモンじゃなし。それに、オレ、さっきから何度も鬼堂ちゃんって呼んでるじゃんか。もうバレバレよん」
 たしかにそうだ。自分も岷の名を何度か口にしている。
「岷どのと鬼堂どの、ですね」
 顕良が確認する。鬼堂はその言葉を無視して、立ち上がった。
「行くぞ」
「え?」
「おまえの寝所だ」
 宿直としては、まず閨の中を調べねばならない。馬鹿馬鹿しい茶番だが、とりあえずは付き合うか。
「……はい。こちらです」
 顕良は薬籠を手に、房を出た。岷が鼻唄まじりにそれに続く。
 鬼堂はついさっき顕良が張ってくれた膏薬を無造作に引き剥がし、濡れ縁の外に投げ捨てた。