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たまゆら by 近衛 遼
第二十九帖
「どーりで、わかんなかったはずだよ。まさか仏サンだったなんてねー」
ぶらぶらと中庭を歩きながら、岷が言った。
朝餉のあと、顕良はふたたび床に就き、晴は顕良に命じられて薬湯を作りに行っている。新しく厨女に雇われたあの赤ら顔の女性は、さぞ驚いていることだろう。顕良の側女になったはずの晴が、膳の片付けをしたり薬湯を煎じたりしているのだから。
「いやー、実際、あんときは焦ったよ」
赤毛をがしがしとかきながら、苦笑する。
「半月かけても術の大元が掴めないなんてさー。オレ、もうダメかもって思ったもん」
この山荘に留まってから、岷は顕良の周囲に現れる結界の出所を特定しようと試みたが、術の波長を拾うことができず、お手上げ状態だったらしい。
「でも、仕方ないよね。この世のもんじゃなかったんだから」
黄泉の国まで「気」を追っていくわけにもいかない。現世の者には解明できなくて当然だ。
「あーあ、ほーんと、今回はいっぱいベンキョーさせてもらったよ」
「そりゃよかったな」
「鬼堂ちゃんてば、他人事だと思って〜」
岷はちろりと鬼堂をにらんだ。が、すぐに口の端を持ち上げて、
「ま、おかげで鬼堂ちゃんに『天才』なーんて言ってもらえたから、万々歳だけどね」
それが、よほどうれしかったらしい。岷は大きく伸びをした。
「ところでさあ」
「なんだ」
「鬼堂ちゃん、これからどーすんの」
「どうって?」
「……まさか、なんにも考えてないワケ?」
そろそろと、こちらを窺う。
阿呆。俺だって考えてるさ。これから先のことを。
「一応、言っとくけど……若さまさらってくのはNGだよ」
「わかってる」
即答した。
自分は御世辞にも要領のいい人間ではないし、気が長い方でもない。相棒はそれを心配しているのだろう。
「だったらいいけどねー。で、どうするつもりよ」
再度、訊く。
「どうもしねえよ」
「へ?」
「ここにいる」
自分は刺客だ。傭われて人を殺す。ずっとそうやって生きてきた。一カ所に長く留まったことはない。ひとつの仕事が終われば、次を探す。そしてまた、ひとつ終わればその次へ。
今回も同じはずだった。物の怪騒動が解決すれば、自分たちはもう用なしだから。しかし。
『行かないで』
あのとき、顕良は言った。
『行かないでください』
まちがいなく、言ったのだ。この腕の中で。
いいのかよ。そんなこと。取り返しのつかないことになるかもしれねえぜ。……って、もう十分、取り返しつかねえよな。
離れられるわけがない。忘れられるはずもない。あの肌、あの声、あの表情。すべてが自分を捕えているのだから。
「どこにも行かねえ」
あらためて、断言する。岷はくすりと笑った。
「お互い、年貢の納め時ってコトね」
「……そうだな」
ずいぶん高い年貢になりそうだが、それを払ってもまだあまりある。
「鬼堂さーん、若さまの薬湯ができましたー」
正殿へと続く渡殿から、晴の声がした。
「あ、はいはーい。いま行くよん」
鬼堂の代わりに返事をして、岷が渡殿へと駆け寄った。
「ありがとー。あとは部屋で休んでてねっ」
新妻にねぎらいの言葉をかけて、
「鬼堂ちゃーん、ほら、これ。さっさと若さまんとこ持ってってー」
ことさらに大きな声で言う。
鬼堂は無言のまま薬湯を受け取り、ふたたび正殿へと向かった。
思いのほか、顕良の回復は早かった。昼すぎには褥から出て、夕刻には遣り水のあたりを散策するまでになっていたのだから。
警護役として付き従いながら、鬼堂は顕良の一挙一動を見ていた。日の光の下で見るその姿は、自分だけのものではない。が、そのことに対する苛立ちや焦りのようなものは、もうなかった。
「鬼堂どの」
水際を歩いていた顕良が言った。
「なんだ」
「萩野はまだ、局に?」
「ああ。たぶんな」
今朝方、晴が言っていたことを思い出しながら、答える。
「そうですか」
やはり気になっているのだろう。萩野は顕良が幼少のころから仕えていた、いわば乳母のような存在だから。
もっとも、あしたには出てくるだろう。なんといっても「若さま命」な萩野である。顕良を俺たちだけに任しておけるはずはない。
鬼堂は視線を巡らせた。山の日の入りは早い。空の色はすでに夕暮れのそれに変わっていた。
「そろそろ、中へ……」
鬼堂が声をかけたとき。
東側の棟の外廊下に、人影が見えた。背筋をしゃんと伸ばし、ゆっくりと歩を進めている。
「萩野!」
顕良は腹心の侍女の名を呼んだ。
「若さま……」
萩野は一瞬、驚いたようだったが、すぐにその場でひざを折った。
「具合はどうだ」
渡殿に上がって、顕良が訊ねた。萩野は視線を下げたまま、
「昨日に引き続き御前に侍ることかなわず、申し訳ございません」
「そんなことは、もういい。ぼくの方こそ、おまえに相談もせずに……」
「いいえ」
萩野は顔を上げた。
「このお屋敷のあるじは、若さまです。何事も若さまのお心のままに」
こりゃ相当、凹んでるな。
渡殿の下から成り行きを窺いながら、鬼堂は思った。いつもとかなり様子が違う。
「わたくしは、思い違いをしておりました。いついかなるときも若さまのためと思いながら、その実、若さまのお気持ちを汲み取ることもできず……情けのうございます」
萩野は淡々と続けた。
「いっそのこと、お暇を頂戴しようかとも思ったのですが……」
「え……」
「それをしては、実森(さねもり)に怒られまする」
「萩野……」
顕良は萩野を見つめた。
「あの子が果たせなかったぶんまで、この萩野、若さまにお仕えする所存にございます」
ふたたび、きっちりと礼をする。顕良は頷いた。
「では、夕餉の支度を頼む」
「かしこまりました」
ぴしっと指を揃えて、答える。ひざまずいたまま少しうしろに下がり、萩野はその場を辞した。
「よかったな」
萩野の姿が見えなくなってから、鬼堂は声をかけた。
「バアさんが、辞めちまわなくて」
「ええ。本当に……」
穏やかな顔。以前なら、それすら許せなかったかもしれない。自分以外に向けられる感情のすべてが。
いまだに自分でも信じられない。人は、こうも変われるものなのか。
「そろそろ、戻るか」
先刻、言おうとしていた言葉を口にする。
「はい」
顕良は小さく笑った。そっと鬼堂に寄り添う。
ただそれだけのことで、鬼堂はこのうえない満足感を感じていた。
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