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たまゆら by 近衛 遼
第二十八帖
朝餉の前に、手水の用意を整えて寝所にやってきたのは、萩野ではなく晴だった。
「萩野さまは、いまだご気分が優れないようで、今日は伺候を控えたいとおっしゃっています」
自分が蚊帳の外にされたことが、だいぶ堪えているらしい。
あのババアでも、そんな繊細な神経があったんだな。妙に感心して、鬼堂は手水鉢を受け取った。
顕良はまだ眠っている。おそらく昼ごろまでは目を覚まさないだろうが、晴が朝飯を持ってきたら、一応声をかけてみるかな。そんなことを考えていると、
「……」
顕良が何事か呟いて、寝返りを打った。悲しそうに眉根を寄せている。夢でも見ているのだろうか。さらに意味のわからぬ言葉を口にする。
「おい、どうした」
肩を掴んで揺すってみる。悪い夢なら、起こした方がいい。
「顕良。……顕良!」
はじめて、鬼堂はその名を呼んだ。閨でさえも口にしたことのない名を。
顕良の体が一瞬、びくりと震えた。動きが止まる。ややあって、ゆっくりと両の目が開かれた。
「あ……」
漆黒の瞳に、自分が映っている。
「気がついたか」
「鬼堂……どの……」
掠れた声。またしても昨夜の行為を思い出しそうになったが、顕良の尋常ならざる様子に、それはすぐに奥へと引っ込んだ。
「なんだ?」
「ぼくは……ぼくはいま……」
鬼堂の腕をぎゅっと掴む。起き上がろうとして、顔をしかめた。言うまでもなく、情交の影響だろう。
「ちょっと待て」
あわてて背中に手を回す。上体を支えて、ゆっくりと起こした。
顕良は視線を格子の向こうに向けた。朝の光の中、遣り水の音が清かに聞こえている。しばらく見据えたのち、寂しげに微笑して目を閉じた。
「母上……」
うっかりすると聞き逃すほどの声で、顕良は言った。肩が震えている。泣いているのだろうか。目許はよく見えないが。
しばらく、ふたりはそのままでいた。遣り水の音と風の音と、遠くで鳴く小鳥の声を聞きながら。
どれくらいたっただろうか。顕良はそっと鬼堂の胸を押した。
「すみません。取り乱してしまって」
「いや、べつに、かまわねえよ」
あれのどこが「取り乱した」んだよ。声も出さずに、ただひっそりとなにかに耐えて。
こいつはいつもそうだ。なにも言わず、すべてひとりで抱え込む。自分とのことだって、どう考えても理不尽な関係なのに、腹心の侍女である萩野にすら告げず、我が身ひとつに引き受けている。
「さっき……『母上』って言ったよな」
先刻聞いた言葉を繰り返す。顕良は頷いた。
「はい」
「それって、春日家のじゃなくて、ほんとのおふくろさんのことか」
「はい。いまはもう、いませんが」
「流行り病で亡くなったんだってな」
「ええ。でも……」
ふたたび、格子の向こうに目を遣る。
「きのうまでは、いたんです」
「え?」
「姿はなくとも、ぼくの側に。けれど、いまはいない。きっともう、自分はいなくてもいいと思ったのでしょう」
こいつ、どこかおかしくなっちまったんじゃ……。
鬼堂はまじまじと顕良を見た。昨夜、閨の最中に聞いた言葉といい、いまのこの様子といい、とても常識では考えられない。
「おまえ、自分がなに言ってるか、わかってるか?」
そろそろと訊ねると、
「ああ、すみません。最初から説明しないと、わかりませんよね」
顕良はそう言って、困ったように笑った。
顕良の母、大江名賀古は春日家の正室、讃良の侍女だったが、じつは讃良の身辺警護も勤める術者であった。
讃良が実家にいたときから、名賀古は結界術の能力を買われていた。そのため、讃良の父は娘が嫁ぐにあたって、名賀古を侍女として同行させたのだ。
「母はお方さまを慕っていました。何事にも真摯に向かい合い、つねに最善を目指す。そんな姿勢を尊敬し、長いあいだお仕えしてきたのです。お方さまのたっての願いで側室となったあとも、それは変わりませんでした。もっとも、まひるが生まれたあと、しばらくは自分の選択が誤っていたと悩んだようですが」
そのあたりのいきさつは、讃良からも聞いた。名賀古が術者であったというのは初耳だが。
「で、そのおふくろさんが、きのうまでいたってのは……」
「残留思念です」
「残留思念?」
「母は流行り病で急逝しました。母が床についたと聞いたぼくが、都からここに来たときには、もう……」
顕良が本宅に引き取られたあと、名賀古はこの山荘で暮らしていたらしい。
顕良は母の死に目に会えなかった。名賀古は息子に別れを告げられなかった。
「心残りだったのだと思います。だから、母の魂はここを離れなかった」
都で伯爵家の家督を巡るいさかいがあったあと、顕良は幼少時を過ごした雲海山に隠棲した。その直後、名賀古の思念がいまだ山荘に留まっていることに気づいたという。
「本当なら、母を天へ還すよう努力すべきでした。しかし、そのときのぼくには、それができなかった」
本宅に入って以来、側近く仕えてくれた毒見役の青年を失い、その責を負うかのように、長年春日家の厨所を任されていた料理人が自害した。
自分が都に来なければ、こんなことにならなかったのではないか。自分さえいなければ、だれも傷つかずに済むのではないか。そんなふうに考えていたとき、顕良は名賀古の思念に触れた。
「少しだけ、休みたかったんです。母上の側で」
顕良は疲れきっていた。傷ついていた。それは容易に想像できた。
「それで、おふくろさんは……」
「はい。ずっと、ぼくを守ってくれました」
次々と送られてくる刺客から。あるいは病や事故から。ただひたすらに、わが子を思うがゆえに。
そりゃ、強力なはずだよ。母親ってのは、子供のためならどんなことでもするからな。はじめて顕良に会ったときの強烈な攻撃結界を思い出し、鬼堂は身震いした。
それにしても、よくいままで無事でいられたものだ。自分が顕良にしてきたことを思えば、八つ裂きにされても仕方がないはずだ。現にゆうべだって……。
心の中で疑問符を浮かべていると、
「なーんだ。そーゆーコトだったのね」
御簾の向こうから、ぼそりと声がした。
「ちょっと、岷さん。だめじゃないの」
小さな声がそれを制する。
鬼堂はため息をついた。新婚さんが揃って盗み聞きかよ。
気配に気づかなかったのはしゃくだが、どうせ岷が遮蔽結界を張っていたのだろう。信行から術の指南を受けてから、格段にレベルアップしているから、わからなくて当然だ。
「朝飯、できたみたいだぜ」
鬼堂がそう言うと、
「そうですね」
くすりと笑って、顕良は脇息を引き寄せた。
「では、御簾を上げてください」
「おう」
例によって、無遠慮な物言いで答える。するすると御簾を上げると、戸口のところに岷たちがいた。
「ごめんねー。邪魔するつもりはなかったんだけど、つい……」
「余計なことはいいから、早く朝飯の支度をしろ」
「はいはーい。晴ちゃん、運んで運んでー」
ぴらぴらと手を振って、岷。晴はばつの悪そうな顔をしながらも、朝餉の膳を上座に供した。
「ありがとう」
顕良は微笑した。
「いいえ。わたくしの方こそ……若さまには、どんなに感謝しても足りないぐらいです。本当に、ありがとうございました」
晴は額をすりつけるようにして、頭を下げた。つられるように、岷もふかぶかとお辞儀する。
「やめてください。ほら、せっかくの料理が冷めてしまう。皆でいただきましょう」
以前と同様に、毒見という名目で鬼堂たちのぶんも用意されている。晴も一応はまだ顕良の側女ということになっているので、同じように膳がしつらえてあった。
「そだねーっ。雑煮も焼き魚も冷めたら不味くなるもんね」
どこまでも現金な岷が、そそくさと席に着く。
こうして、正月二日目の朝餉は賑やかに進んでいった。
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