たまゆら
by 近衛 遼




第三十帖

 夕餉の席は、萩野の差配で滞りなく進んだ。
 晴も、今日は侍女として萩野の指示に従い、顕良の膳の給仕をした。着物も綿のものに着替えている。
「晴。若さまがあつものを食されたら、すぐに白湯の用意を。椀を引き、湯呑みを置く。よろしいな」
「はい、萩野さま」
 どうやら萩野は、いままで自分がやっていた仕事の一部を、晴に教えようとしているらしい。顕良はその様子を、微笑ましげに見つめている。
 昨日よりはいくぶんかしこまった雰囲気ではあったが、それなりに穏やかに時間は過ぎていった。


 夜の読経のあと、岷と晴は房に下がり、萩野も寝所を整えて退出した。あとに残ったのは、顕良と鬼堂。
 顕良はまた文机の前にすわり、書物を読んでいる。鬼堂はふとあることを思い出し、自分の房に戻った。隅に打ち遣ったままの背嚢の中から、過日、小間物屋で買った品を取り出す。
 帰ってきてからいろいろあって、すっかり失念していた。鮮やかな露草の描かれた、柘植の櫛。鬼堂はそれを手に、正殿に戻った。
 顕良は御簾の外にいた。鬼堂を認めると、ほっとしたように息をついて、
「なにか、あったのですか」
「え?」
「急に、姿が見えなくなったので……」
「悪い。ちょっと、忘れもんをしてたんでな」
「忘れ物?」
「ああ。これ」
 鬼堂は櫛を差し出した。
「やるよ」
「鬼堂どの……」
 顕良は目を見開いた。
「要らねえんなら、捨ててくれ」
「いいえ。……ありがとうございます」
 櫛を受け取り、顕良は御簾の中へと入った。夜具の上にすわり、ゆるく結んでいた髪を解く。
 柘植の櫛が、長くつややかな髪のあいだを滑っていく。するり、するりと。
 一度も引っかかることなく、櫛は顕良の髪のあいだを流れていった。ひと通り、それを終えると、顕良は櫛を文机の上に置いた。
「休みます」
「え……あ、ああ。そうだな」
 思わず声がうわずった。
 馬鹿野郎。なに考えてんだ。いくらなんでも、今日は駄目だ。こいつだって、やっと歩けるようになったところなんだから。
 なんとか理性をかきあつめて、鬼堂が御簾の外に出ようとしたとき。
「………」
 ひっそりとした声。
 それは昨夜、聞いたのと同じ。
「おまえ……」
 ぐっとこぶしを握り締め、鬼堂は振り向いた。漆黒の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「……本気かよ」
 ゆっくりと近づく。顕良の項に手をかけ、引き寄せた。
「一度、訊きたいと思ってたんだがよ」
「なにをです」
「なんで、俺と……」
 そりゃ最初は、一方的にヤっちまったんだが。あれこれ考えている鬼堂の腕に、顕良の手が添えられた。
「それは……」
 手に力が加わる。
「応えられると思ったからです」
「応えられる?」
「ええ。あなたになら、ぼくも返すことができる。あなたの望むものを」
 それが、これか。
「ぼくはずっと、皆からもらってばかりだった。父上からも母上からもお方さまからも、もちろん萩野からも。実森からは、命までもらってしまって……でもぼくには、なにもできなかった」
 実森というのは顕良が本宅にいた折の毒見役で、じつは萩野の息子であるらしい。
「『申し訳ない』と……実森は、申し訳ないと言ったんです。ぼくの身代わりになって、死んでいこうというときに」
 ほろり、と、顕良の目から涙がこぼれた。
『ずっとお側近くにお仕えして、若さまのお役にたちたかった。
 不甲斐ない実森を、お許しください』
 実森の最期の言葉だ。
 なるほど。そりゃ、キツイよな。鬼堂は思った。
 注がれる一方の思い。それに報いる術もなく、ただ、がんじがらめになって。
「だから……いいんです」
 潤んだ瞳が見上げる。鬼堂は顕良を抱きしめた。そのまま夜具に倒す。震える唇をふさいで、息を奪った。
『ぼくが、望んだから』
 鬼堂が都へ発つ前夜、顕良はそう言っていた。それは、こういう意味だったのか。
 内部を味わって、ゆっくり唇をはなす。
 ほしい。いま、おまえがほしい。でも。
「もう寝ろ」
 ぼそりと告げる。
「え……」
「今日は、やめとく」
「鬼堂どの……」
「おまえ、まだ本調子じゃねえだろうが。そんなんじゃ楽しめねえからよ」
 わざとそっけなく、体を放す。
「次んときに、今日のぶんもまとめて払ってもらうよ」
 言い捨てて、鬼堂は外に出た。
 外廊下を回り、中庭に下りる。冬の夜空は、恐いほどに美しかった。ぴりぴりとした空気が全身を包む。
 危ねえ危ねえ。もうちょっとで、いっちまうとこだった。
 あのまま流されたら、ゆうべよりすごいことになっちまったかも。
 青墨色の空の下、息が白く溶けていく。鬼堂は刀を手にしたまま、しばしその場に佇んでいた。


 三が日はこうして過ぎ去り、やがて七草を迎えた。
 都の春日家からは次々に新春を祝う文が届き、中には次の除目で顕良を兵部参議に推す旨の書状まであった。
「へーえ、さーすがイノシシの若君。やることが速すぎだよ」
 顕良からその書状を見せてもらった岷が、くすくすと笑った。
「兄上は、ぼくがいまだに官位に就いていないことをご心配になって、いろいろ手を尽くしてくださっているんですよ」
「でもさー。若さま、都に戻る気、ないんだろ?」
「ええ、まあ」
 清興からの書状をたたみ、顕良は言った。
「兄上のお気持ちはうれしいのですが、いまさら表に出るつもりもありませんし。それより薬方をもっと学んで、いずれは薬師として身を立てたいと思っています」
 もっとも、そうなったらなったで、王城の薬寮殿か護国寺の薬石院あたりから引きが来そうだが。
「あ、これ、先生からだね」
 遠慮の「え」の字もなく文机の上の文を見ていた岷が、一通の書状を取り上げた。
「先生って、信行卿か?」
「そうそう。ふーん、もうすぐ宗の国に発つってさ。どうやら、ぜーんぶ収まるところに収まったみたいだね」
 上機嫌でそう言って、岷はぴょこん、と立ち上がった。
「さーて、と。オレ、そろそろ引き上げるね〜。あ、そーだ、鬼堂ちゃん。今日は遮蔽結界、いる?」
「……岷」
 ぎろりと、鬼堂がにらむ。
「うわ、ごめーん。冗談だってば。んじゃ、おやすみー」
 軽い足取りで出ていく。鬼堂はため息をついた。
「すまねえな」
 ちらりと顕良を見遣って、言う。
「悪いやつじゃねえんだが、ちっとばかしふざけすぎるとこがあって……」
「そんなことは、わかっていますよ」
 くすりと笑って、顕良。
「休みます」
「ああ」
 いつも通りの遣り取り。鬼堂は顕良が脱いだ上衣を衣桁に掛けた。灯明を消して御簾の外に出ようとしたとき、うしろでかすかに衣擦れの音がした。
 はらり。絹の夜着が褥に落ちる。
「顕良……」
 思わず、名を呼んだ。
 薄い月明りの中に浮かび上がる、美しい肢体。
 いいのか、と、訊くことはしなかった。刀をそっと枕辺に置き、鬼堂は顕良を夜具に沈めた。

 急ぐ必要は、もうなかった。顕良もそれを求めているのだから。

 その夜、ふたりははじめて、時間のすべてを共有した。
 新しい朝の光が、東雲の空を染めるまで。
  
 (了)