たまゆら
by 近衛 遼




第二十六帖

 明けて、元旦。
 夕刻になってから、ふたりは雲海山の山荘に帰り着いた。正殿はすでに改築が終わっているらしい。春日家から派遣されたのであろうか。外回りの衛士が何人か、館の周囲に配置されていた。
「あー、めでたいめでたい。なんもかんも、めでたいったらないねーっ」
 ほくほくの顔で、岷が言った。
「そりゃよかったな」
 適当に相槌を打つ鬼堂のひじを、にんまりと岷が小突く。
「なにスカしてんのよ。鬼堂ちゃんだって、やーっと帰ってきて、内心舞い上がってるくせに〜」
 うるせえ。舞い上がってて悪かったな。きのうはそのせいで満足に眠れなかったんだ。おかげで今日は、目はギンギン充血してるし、あっちの方も……。
「ご苦労じゃったの」
 正殿に続く渡殿に現れた萩野が、中庭にいた鬼堂たちに声をかけた。あいかわらず、頭から冷水なババアだぜ。
「装束を整えたら、若さまの御前に参るよう」
 顕良はいま、正殿の奥の間にいるという。
「はいはーい。すぐ行きまーす」
 岷が機嫌よく答える。萩野は例によって不本意そうな顔をしていたが、なにも言わずに奥へと入っていった。
「さーって、まずは晴ちゃんにお土産渡してこよっと」
 スキップを踏むような調子で厨に向かう。小腹がすいていた鬼堂も、湯漬けでも食おうかとそのあとに続いた。
「晴ちゃーん、たっだいまー………って、あれ?」
 厨の中を覗いた岷が、戸口で立ち止まった。
「……あんた、だれ?」
 そこにいたのは、四十半ばの赤ら顔の女性だった。
「だれって、あんたたちこそだれだよ。あたしはこのお屋敷の厨女(くりやめ)だよ」
 女は胸を張って、答えた。
「厨女って、じゃ、晴ちゃんは……」
「晴ちゃん?」
 女は訝しそうな顔をした。
「ああ、そういや、晴さまは厨仕事をしているときに見初められたっていう話だっけ」
「は……『晴さま』って……それ、どーゆーことだよ、おばちゃんっ」
 岷が女に詰め寄った。女はやれやれといった様子で、自分の知っている事実を告げた。
 晴が、顕良の側女(そばめ)になった、と。

 正殿の奥の間に、顕良がいた。その横には絹の襲ね着姿の晴。
 御簾は上がっていた。上座のふたりの前に、鬼堂たちは案内された。岷は栗色の両眼を見開いたままだ。
「子細は聞きました」
 顕良が言った。
 久しぶりに聞く顕良の声。が、それは鬼堂がずっと聞きたいと思っていたものではなかった。
「いろいろと骨を折っていただいたそうですね。ぼくからも、お礼を言います」
 落ち着いたその物言いは、自分と顕良の距離をことさらに感じさせる。鬼堂は御座をにらみつけた。
 どういうことだ。これは。
『ご無事をお祈りしています』
 そう言ったおまえが、なぜ側女を侍らせて自分を迎えるのだ。しかも、その側女がよりにもよって、岷が求婚しようとしていた晴とは。
 いまになって、身分の違いとやらを見せつけようってのか。俺たちみたいな虫ケラは、這いつくばってお情けを頂戴していろと。
 冗談じゃねえ。もし、おまえがそんな了見なら。
 いまからでも、殺してやる。ああ。そうだとも。それこそ、責めて責めて責め立てて、骸になるまで犯し続けてやる。
 鬼堂の中に、その名のごとき鬼が宿りかけたとき。
「ときに、岷どの」
 顕良はするりと視線を移した。
「夕餉のあとで、笛を聞かせていただけませんか」
「お断りします」
 ぴしりと、岷は言った。
「オレ、もうここんちにいる気はないから」
 すっくと立ち上がる。
「おい……」
 常とは違う相棒の様子に、鬼堂は顔を上げた。
「鬼堂ちゃんだって、そうだろ」
 先日、信行の術と封じたときと同じぐらい真剣な顔で、岷は続けた。
「オレたちが命懸けで仕事してるあいだに、こんなことになってるなんてさ。やってらんねえじゃん」
 どうやら、岷も鬼堂と似たようなことを考えたらしい。
「待ってください。それは誤解です。ぼくは……」
 困惑した顔で、顕良。
「なにが誤解だよ! 晴ちゃんは若さまのお手付きになった。こんなわかりやすいこと……」
「違います!」
 顕良は断じた。
「若さま、いったいなにを仰せで……」
 萩野が口をはさむ。
「すまない、萩野。こうするしかなかったんだよ」
「え、では、晴どのは……」
「あとで、ゆっくり話をするつもりだったんだけどね」
 顕良はすまなそうな顔をして、笑った。

「もー、若さまったら、それならそうと早く言ってよー」
 夕餉の席で顕良から詳しい事情を聞いた岷が、先刻とは打って変わって明るい口調で言った。
「オレ、もうちょっとでマジ切れしちゃうトコだったよ」
 やっぱりな。
 あのとき感じた、すさまじい「気」。それは鬼堂自身が内にいだいたものと同類だった。
「すみません。都から戻ったばかりで、おふたかたともお疲れだと思ったので、まずは夕餉をと……」
 顕良は晴に命じて、岷の杯に神酒を満たした。鬼堂は手酌である。ちなみに萩野は、あのあと目眩がすると言って、奥の間を辞してしまった。
「あー、でも、さっきのお局さまの顔ったら。新年早々めずらしいモン見せてもらって、寿命が三年は伸びたよ〜」
 くすくすと笑って、岷は言った。
「まあ、自分の計画が思いっきり外れちゃったんだもんねー。しばらく立ち直れないかも」
 萩野はじつは、晴をこの山荘の厨女として雇うときから、いずれは顕良の側女にしようと目論んでいたらしい。
 雲海山に引き籠もったとき、顕良は十六だった。これまで心を動かされた女人はいなかったようだが、そろそろだれぞ決まった者を側に置き、それなりの経験を積んでもらいたい。といって、その類の仕事をしている者や、若くして寡婦となった者を顕良の枕辺に侍らせるのも気が進まない。そこで、春日家の荘園から見目も気立てもいい、しかも働き者の晴が選ばれたのである。
 もっとも晴自身は、そんなことはまったく知らなかった。ただ、春日家の山荘でご奉公するのだと聞かされて、そこでつつがなく勤めれば、都の本宅の侍女になれるかもしれないし、それなりの嫁入り支度もしてもらえると思って、懸命に働いてきたのだ。
 それが、鬼堂たちが都にたった直後、萩野は晴に暇(いとま)を言い渡した。
「ここに参ってまもなく二年。いまだお声がかからぬということは、そなたが若さまのお気に召さなんだということ。ゆるゆる下がるがよい」
 晴にとっては、寝耳に水だった。自分が顕良の側女として召されたことも、その役目が果たせなかったために暇を出されることも。
 思い余って、晴は顕良に直訴した。側女にならねば、ここを追い出される。しかし自分には、思う人がいると。
「添い遂げられるかどうかはわかりません。でも、その人が帰ってくるまで、ここにいさせてください」
 晴は必死になって、そう言ったらしい。
 「その人」。それこそが、岷だった。
 形の上だけとはいえ、側女になる。当然、閨をともにすることになる。いくら顕良が承知したとしても、そこは男と女。いつなにがあるか、わからない。
 それでも、晴は在所に戻されるのは嫌だった。戻れば、必ずどこかへ嫁がされる。晴も十八。周りが放っておくはずはないのだ。
 そんなことになるぐらいなら、万にひとつの可能性であっても、側女となってここに残る。晴はそう決断したのだった。
「萩野には、また折を見てぼくから話をしておきます」
 顕良はにっこりと笑って、そう言った。
「だから、どうか安心してください」
「若さま、ほんとにありがとねー」
 岷が柄にもなく、涙目になっている。
「あ、そうだ。これ、忘れるとこだった」
 懐からごそごそと、都の小間物屋で買った品を取り出す。
「はい、晴ちゃん」
 美しい組紐で飾られた箱の中には、紅と匂袋と、螺鈿の手鏡。
「いまさら言うのもなんだけど……オレの嫁さんになってよ」
 まひるのそれと比べたら、いくぶん勢いに欠ける求婚であったが、晴は小さく「はい」と答えて箱を受け取った。
「やったーっ。うわあ、もう、今日はめでたいの大合唱だよーっ」
 やたらと盛り上がっている岷を横目に、鬼堂は御座所にすわる顕良の、白く美しい相貌をじっと見つめていた。