たまゆら
  by 近衛 遼




第二十二帖

 雨は降り続いていた。風が妻戸を揺らす。
 東の対屋は正門にいちばん近い場所にある棟で、おもに客間として使われている。その一室に、兵衛府大夫である菅行昌は休んでいた。
 ひょうひょうと風がうねる。闇の中に行き交う唸り声にも似たそれは、黄泉の国から聞こえる怨嗟のようでもあった。
『おるか』
『おるのう』
『なにやつじゃ』
『さてのう』
 いずこからか、呟くような声がする。
『ひと嘗めしてみい』
『ひと嘗めかえ?』
『いかにも』
『旨いかのう』
『さてのう』
 ぺたり、と、なにかが顔に取り付いた。
「ひいっっ……」
 菅行昌は臥し所から飛び起きた。几帳を倒して、板の間に転がる。
「な……なにやつ!」
 さすがに兵衛府の長。刀をしっかと構えている。その目の前に、青銅色の顔をした入道が赤黒い舌を出して浮遊していた。となりには、対照的に緋色の天狗のような顔。
「こ……この、物の怪が!!」
 行昌は刀の陰で口呪を唱えた。が、それは一瞬のうちに音を失っていく。
『微妙、じゃの』
『ほう。微妙、かえ?』
『喰らい甲斐のあるようで』
『あるようで?』
『ないような』
『ないような』
『要するに』
『喰えぬということかえ?』
『おお、まさに』
 青い顔の入道と、赤い顔の天狗が房の中を飛び交う。
「……なにをしおるかっ!」
 行昌は房を出た。ずんずんと縁を進む。途中、宿直(とのい)の衛士が倒れ伏しているのを見たが、そんなものは意にも介さず、とある場所を目指す。
「信行!」
 行昌は房の扉を蹴破った。
「おぬし、なにゆえにかような真似をしやる!」
 感情が噴出している。
「かような、とは……」
 奥から、人影が現れた。
「いかなる仕儀にございましょう」
 長衣を引き摺るようにして、信行は言った。憔悴しきった顔に、常の面影はない。
「なにを言いやる。参議の捕縛で事が丸く納まったというに、さらなる騒ぎを起こしたはおぬしであろうが」
「私が……でございますか?」
「ほかにだれがいる!」
「私は、なにもしておりませぬ」
「よくも、ぬけぬけと……」
 行昌は刀を向けた。
「申せ! なにが望みだ。その方とて、春日の家に一矢報いんと思うているはずだ。それをなぜ、事ここに至って……」
「父上」
 低い声で、信行は言った。行昌の両眼が開く。
「私は、間違っていました」
「おぬし、なにを……」
 行昌は全身を震わせた。刀がカチカチと音を出す。
「ですから、その過ちを償おうと……」
「言うな!」
 刀が振り上げられる。信行は動かなかった。その顔には、笑み。
 ザッ、と、長刀が振り下ろされた。直後。
「菅大夫」
 玲瓏な声が響いた。刀は彼方へと飛ぶ。
「おのが罪状、お認めになりましたな」
 禁色の胞衣をまとった男が、最後の一石を投じた。


 ゆらゆらとした栗色の髪と、緑がかった黒い瞳。年は三十路を少し越えたあたりだろうか。
 裾をするりと捌き、房の中央に座したその人物は、東洞院八束(ひがしのとういん やつか)と名乗った。なんでも、護国寺では上人に次ぐ地位にいるとかで、今回の春日家の騒動には当初から関わっていたらしい。
「清顕卿からご相談を受けたときは、まさかこれほど大仰なことになるとは思っていませんでしたが」
 広がりのある涼やかな声。
「菅大夫の企て、これではっきりといたしました」
 淡々と八束は言った。側には、桐野が控えている。
 なるほどな。こいつの本当の主上は、この男か。
「もっとも、中務家が今回の件にどこまで関わっていたかは、今後の調べを待つことになりそうですが」
 はいはい。そうかよ。
 なかば投げやりな気持ちで吐き捨てる。こっちは懸命にやってたってえのに、結局はそっちの思惑に乗せられてただけじゃねえか。鬼堂はふたりの様子を観察した。
 桐野はあいかわらずのポーカーフェイスだ。が、これまでと違って、いくぶん構えが甘い。本来の立ち位置に戻って、安心したからかもしれない。
「子爵と信行卿が親子だって、いつからわかってたんだよ」
 鬼堂が問うと、八束は困ったように笑った。
「それは……まあ、かなり前から、ですね」
 上層部では、公然の秘密であったのだろう。桐野もその事実を了解していたようで、
「御身さまから信行卿と菅大夫が繋がっていると聞いたとき、今回のおおよその仕組みは予想がつきました」
 行昌が信行と結託して、春日家を陥れようとしている、と。
「そーゆーの、もっと早く教えてくれたらよかったのにー」
 げんなりした調子で、岷。
「申し訳ありません」
 桐野が神妙に言う。
「わたくしの一存では、そのあたりのことは計りかねましたもので……」
 けっ。なにほざいてるんだよ。鬼堂は桐野をにらみつけた。
 こいつはなにもかも承知のうえで、俺たちを利用したに違いない。それこそ、万一のときには使い捨てることができるという魂胆で。
 見事だったと思う。単なる私怨で刺客を傭う輩よりは、何倍も物事を考えているから。
「で、これからどうすんだ」
 鬼堂が問うと、八束はゆるりと笑みを漏らした。
「何事も、御上の思し召しのままに」
「そんなもん、とっくの昔に決まってんだろうが」
「ほう。どのように」
「仮にも兵衛府の大夫だぜ。『十席』に名を連ねようかってヤツを、公に断罪するわけにはいかねえだろ」
「そこまでおわかりなら、御身もこたびの顛末は口外無用に願います」
 八束は桐野に目で指図した。桐野が懐から巾着を取り出す。鬼堂はそれを一瞥して、
「口止め料かい」
「御礼ですよ」
 八束はさらりと返した。
「春日家と菅家、さらには中務家の名誉を守っていただいたのですから」
 名誉、ね。そんなもん、ハラの足しにもならねえが。
 鬼堂は巾着を受け取った。岷がちらちらとこちらを窺っている。悪いがこれは折半だぜ。こんなやばいネタを仕入れちまったからにゃ、いつどこでうしろからバッサリやられるか、わかったもんじゃねえからな。
 鬼堂は立ち上がった。
「じゃあな」
「おや、どちらへ」
「俺たちの仕事は終わった。これ以上、ここにいる必要はねえよ」
「えーっ、ちょっと鬼堂ちゃん、外はまだ大雨なのよ。やむまで待とうよー」
 岷が情けなさそうな声で言った。
 馬鹿野郎。長居は無用だ。朝飯に一服盛られてオダブツなんてことになったらどうするよ。
「雨ぐらい、どうってことねえ。行くぞ」
「もー、鬼堂ちゃんてばせっかちなんだから〜。そりゃ、一刻も早く若さまんとこに帰りたいのはわかるけど……」
「やかましい」
 鬼堂は岷の首根っこを掴んだ。
「うわっ、あいたたっ……わ、わかったってば。わかったから、引っ張んないでよー」
 半泣き状態で、岷がわめく。なおもそのまま引き摺って房の外に出ようとしたとき、扉が音もなく開いた。
「あ、伯爵さまー」
 岷がぱっと顔を上げて言った。八束と桐野は横に座を移して、礼をとる。鬼堂も扉の脇に引いて道を空けた。ちなみに、手はいまだ岷の襟首を掴んだままだ。
「大儀である」
 外からの風に、灯明が生き物のように揺らめく。清顕はゆっくりと、房の中へと進んだ。