たまゆら by 近衛 遼




第二十一帖

 夕餉の席に、信行はいなかった。
 東北の対屋での仕事の疲労が、まだ残っているのだろうか。それともあえて自室に籠もり、この場の成り行きを遠見の術で監視するつもりかもしれない。
『いまんとこ、そんな気配はないけどねー』
 信行と同じ性質の術を使えるようになった岷が、あたりの様子を窺いつつ言った。当然ながら、鬼堂にしかわからぬよう、弱い波長の遠話である。
『ま、先生のことだから、術にカムフラージュかけてるのかもしんないけど』
 それならそれで、いい。これからの一連のあれこれは、行昌と信行、いずれかに動いてもらうためのものなのだから。
「いや、まったく、義兄上にも皆々様にも大事なくてなによりでしたな」
 意外にも、菅行昌は上機嫌だった。半日ちかくも待たされたのだから、さぞ不愉快な顔をしていると思っていたのだが。
「明日からは屋敷回りの警備を増やすよう、各部に伝えましょう。どうか心安んじてお過ごしあれ」
 言いながら、清顕の杯に酒を注ぐ。清顕はそれを受けて、
「兵衛府の衛士を個人の邸宅の守りに就かせたとあっては、御上に対したてまつり、あまりにも畏れおおい。さようなことは、おやめくだされ」
 やんわりと断る。が、行昌は首を横に振り、
「なにをおっしゃる。義兄上は兵部の長ですぞ。『十席』に名を連ねる和の国の重鎮。その御身を守るに兵衛府から人を出すは、至極当然のこと」
 うんうんと自分の言葉に頷きながら、行昌は続けた。
「それに、われらは義理とはいえ兄弟の間柄。弟が兄の身を案じて為すことにて、遠慮など要りませぬわ。来春には昌通(まさみち)も宗の国より戻りますゆえ、貴家と当家はますます縁深くなりましょうほどに」
 昌通というのは行昌の長男で、いまは宗の国に留学している。つい先刻の清顕からの文によれば、昌通とまひるはすでに婚約しており、昌通の帰国を待って祝言を挙げる予定であった。
 あの掴み所のない姫さんに許婚(いいなずけ)がいたとはな。
 鬼堂は少なからず意外に思った。深窓の育ちであるに違いないが、まひるにはなにか計り知れないものがある。親同士の決めた結婚に、すんなり従うとは思えないのだが。
 もっとも、まひるが以前から昌通と恋仲であったのなら、それも頷ける。鬼堂が屋敷内を探っていて衛士に見咎められたとき、次は「恋文」を持ってくればいいと言ったのはまひるである。もしかしたら、密かに文の遣り取りをしていたのかもしれない。
「そのことだが、のう、菅大夫」
 清顕は杯を置いた。
「『大夫』などと、水臭うございますぞ、義兄上。ここは城中でも公の場でもござりませぬ。行昌とお呼びくだされ」
 いくらか酒も入っているせいか、行昌は気のおけない調子で言った。
「義兄上はいつもそのようにかしこまっておられる。身がもちませんぞ」
「生まれついての性分じゃ。焼かねば直らぬよ」
 それについては鬼堂も同意見だった。人間の性格など、そうそう変わるものではない。極端な話、焼いても(要するに、死んでも)変わらないと思っている。
「戯れ言はさておき……昌通どのとの話じゃが」
「はあ、なにか不都合でも?」
 途端に、行昌の顔が曇った。細かく目が動いている。どうやら、いろいろなケースを想像しているらしい。清顕は考え事をしているような表情で、視線を逸らした。
 なんとも絶妙の「間」だ。行昌の緊張が目から顔全体へ、そして杯を持った手へと広がったとき。
「当家の婿に入ってもらえぬか」
 さらりと、清顕は言った。
「は? 婿とは……その、つまり……」
 一瞬、意味がわからなかったのか、行昌はまじまじと清顕を見た。
「昌通に『春日』を名乗れと?」
「いかにも」
「昌通は我が家の長男ですぞ」
「ならば、いったんこの婚約は解消して、昌尚(まさなお)どのか行家(ゆきいえ)どのと、あらためて話を進めてもよいのだが」
 行昌には三男一女がおり、昌尚は次男、行家は三男である。
「お待ちくだされ。犬猫を遣り取りするのとはわけが違いますぞ。だいたい、なにゆえ婿取りなどなさる。義兄上には清興どのと顕良どのがおられるではありませぬか。いずれを継嗣とするかは、まだ公になさっていないようですが……」
「あやつらは出家させる」
 ふたたび、清顕は杯を取った。残っていた酒を飲み干して、
「それが春日家のためじゃ」
「義兄上……」
 困ったような顔とは裏腹に、行昌の声には安堵が現れていた。
『伯爵さまも役者だねー』
 岷がぼそりと遠話を送ってきた。
『黙ってろ』
 遠話自体を遮蔽しているとはいえ、相手がエサに食らいつくかどうかの瀬戸際だ。余計なことをして、万が一にも気づかれてはいけない。岷はわずかに片眉を上げて、遠話を打ち切った。
「先々代が春日家を継いだ折も、似たようなことがあってな」
 清顕はしみじみと語を繋いだ。
「そのときは同母の兄弟だったが、嫡男と三男が爵位を巡って争い、家臣たちもそれぞれ二派に分かれて大変な騒ぎとなった。当然、それは御上の耳に入り、伯爵家にあるまじき醜聞として、一時期、春日家は『十席』から外された。曽祖父は春日家の存続のため、嫡男を廃嫡して護国寺に送り、三男を雲海山の山荘に幽閉した。しかるのち、病弱だった次男と分家筋の姫をめあわせて、継嗣としたのじゃ」
 清顕の話は事実だった。思いがけず爵位を得た先々代は、その後十年足らずで早世し、幼くして当主となった先代は生母の実家の後ろ楯を得て、なんとか春日家を存続させたのだ。
 おそらく、行昌もこのことは知っていただろう。先代が外戚の力を頼りに、ふたたび「十席」を拝命するに至ったことも。そしてそれをヒントに、清興と顕良が対立するよう仕向けていたのかもしれない。
「義兄上の苦しい胸の内、お察しいたします」
 神妙に、行昌は言った。
「されど、事はわれわれだけで決められるものでもなし。この話は当家に持ち帰り、熟考したいと存じます」
 すぐに飛びついてこないところは、さすがだな。このあたりは、早々に尻尾を出した参議とは違う。
「さすれば、本日はこれにて。宗の昌通にも、義兄上のお考えを知らせねばなりませぬしな」
 さっそく文をしたためるつもりらしい。
 まずいな。ここで帰られては、今夜の仕掛けができない。
 岷も同じことを考えたのか、清顕と鬼堂を見比べてどうしたものかと合図を送っている。清顕は給仕をしていた桐野に何事か告げて、下がらせた。
「行昌どの、しばらく。長くお待ちいただいたというに、土産のひとつもなしというわけにもゆかぬ。いま包ませておるゆえ……」
「いやいや、お気遣いなく」
 行昌は立ち上がった。ちらりと鬼堂たちを一瞥して、戸口へと向かう。
 清顕は鬼堂たちを行昌に紹介しなかった。行昌としては、なにゆえ衛士ごときが同席しているのかと思ったかもしれない。ふつう、衛士は房の外に控えているものだから。
 山荘で行昌と会ったとき、鬼堂たちは御簾内にいた。そのため、行昌は鬼堂たちがあのとき顕良とともにいたとは気づいていないようだった。
『どーすんのよ、鬼堂ちゃん』
 岷がふたたび、遠話で訊いてきた。どうするもこうするも、自分たちが行昌を引き留めるわけにはいかない。とりあえずエサは蒔いたのだ。あとのことは、次の機会を待つしかない。
 とはいえ、事が長引くと、本当に清興や顕良を出家させる羽目になってしまう。できれば、早いうちに方をつけてしまいたいのだが。
 あれこれと鬼堂が考えていると、
「おや、降ってきましたな」
 外廊下に出た行昌が、南庭の方を見遣って言った。
 いつのまに降りだしていたのか、庭石はすでに色が変わっていた。篝火が雨風に揺れて、いまにも消えそうになっている。雑色が何人か、松明を持って火を足して回っていた。
「氷雨じゃな」
 奥から清顕が言った。
「夜半(よわ)には雪になるやもしれぬ。足下の悪い中を帰らずとも、朝(あした)になさればよかろう」
 ぱちり、と扇を鳴らす。几帳の陰から桐野が現れた。
「行昌どのを東の対屋へ」
「は」
 桐野がひざをついたまま、行昌の前へと進む。
「菅大夫、こちらへ」
「おお、ではお言葉に甘えるとしよう」
 さすがにこの寒空の下、凍えながら帰るのは嫌だったらしい。行昌は前言を翻し、春日邸に留まることを承知した。
「その方らは、宿直(とのい)を」
 清顕の下知が下る。鬼堂たちはきっちりと拝礼した。
「御意」
 いよいよ、詰めだ。
 東の対屋に向かう行昌の背を目で追う。雨音は次第に激しさを増していった。