たまゆら  by 近衛 遼




第二十帖

 翌朝、信行は東北の対屋を調べた。
 物の怪の念が残っていないか。術者の仕込んだ媒介がないか。自ら天井や床下までくまなく見て回ったが、確たるものを見つけることはできなかった。
 もっとも、それも当然だ。昨夜の物の怪騒ぎは鬼堂と岷が起こした狂言。信行と同じ質の術が使える岷が、妖かしを作り出したものだったのだから。
 東北の対屋から引き上げてきた信行は、たいそう疲れているようだった。
「あらら、先生。だいじょーぶ?」
 本殿の侍所で待機していた岷が、心配そうに訊いた。鬼堂は座を譲り、横の卓から湯呑みを取った。白湯を入れて、差し出す。
「どんな具合だい」
 信行は鬼堂たちを、東北の対屋に同行しなかった。おそらく、自分の予想外のことが起こったので、まずはひとりで確認したかったのだろう。
「芳しくない」
 信行は湯呑みを受け取った。
「残留していた念がなんらかの要因で増幅したか、術者がふたたび当家に仕掛けてきたか、あるいはいままでとまったく関係のない第三者の策謀か……。いずれにしても、手がかりがまったく見当たらない」
「先生にもわかんないの? そりゃ厄介だねー」
 内心、「やったあ」とか思ってるんだろうな。
 鬼堂はちらりと赤毛の相棒を横目で見た。これでまた自信満々、鼻高々になることだろう。もしかしたら「超」がさらに一個ぐらい増えるかもしれない。
「伯爵はなんて言ってんだ?」
「今朝はまだお目にかかっていない。ご正室さまのお加減がよろしくないようで、まひる様とご一緒に北の対屋に行っておられる」
 ちなみに清興は、昨夜の一件を聞くや朝いちばんに信行を呼びつけたらしい。が、信行はすでに東北の対屋に入っており、それには応じられなかった。
 清興のことだ。いまごろは、さぞやきもきしているだろうな。側仕えの者たちが必死になってなだめているのが、容易に想像できた。
「んじゃ、まあ、伯爵の指示待ちだな」
「ああ。いま一度、兵衛府参議の周辺を調べ直す必要があるかも……」
 信行がそんな話をしているとき。
 東門に繋がる外廊下の方から、なにやら慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あれえ、子爵さまじゃんか」
 岷が格子から外を眺めて、言った。菅子爵、菅行昌が春日家の家司の先導で本殿の広間へと向かっている。
「どうしたんだろ。伯爵さまに呼ばれたのかな」
「さあな」
 伯爵がわざわざ、黒幕と目されている人物を屋敷に入れるとは思えない。ゆうべのことを聞きつけて、敵状視察に来たってとこだろう。
 鬼堂はさして興味もないといった表情で、白湯を飲んだ。信行は湯呑みを脇に置き、戸口に出た。行昌に向かって、ひざを折る。
「おぬし……」
 行昌は足を止めた。つかつかと信行に近寄る。
「おぬし、いったい……」
 何事が言おうとしたが、近くに鬼堂たちがいるのを見ると、ぐっと口元を引き結んだ。
「こちらの皆様に大事ないか」
 固い声で訊く。
「はい」
 信行は短く答えた。
「それは重畳。しかし、二度とかようなことのないよう、心して務めよ」
「お言葉、つつしみまして」
 信行が頭を下げると、行昌はむっつりとしたまま、侍所の前を通り過ぎていった。
「なーんだよ、子爵さまったら。自分はたいしたコトもやってないのにさー。ね、先生?」
 岷が話を振った。まったく以前と同じ調子である。このあたりはなんとも見事だ。
「いや、私はなんの役にもたっていない。菅大夫がおっしゃるのも、もっともだ」
「クラいよ、先生。ちょっと休んできたら? あ、その前になんか食べなきゃ。朝飯も食べずに物の怪探しに行ったりするから、頭ん中がマイナス思考になっちゃうのよ」
 岷はぱたぱたと外に出た。
「厨でなんかてきとーなモン、見繕ってくるからさー。先生、自分の部屋に帰っててよ」
 ぴらぴらと手を振る。
 あいつ、どこまで本気なんだか。鬼堂は息をついた。これから化けの皮を剥ごうって相手に、あれこれ世話をやいて。さも心配しているように見せて安心を誘う手なのかもしれないが、岷の場合、そればかりとも思えない。
 冗談の中に真意があり、真剣勝負のときにも遊びの部分がある。いまだに、よくわからない男だ。
「御身たちは、よい人間だな」
 ぼそりと、信行が言った。
「へ? なんだよ、そりゃ」
 人の命を奪うことで糧を得ている自分たちの、どこが「よい人間」だというのか。
「そう思ったから、言ったまでのことだ」
 信行は立ち上がった。自室に戻るつもりらしい。
「お館さまからお召しがあったら、知らせてくれ」
 そう言うと、信行はさらりと踵を返した。ゆっくりと渡殿へ向かう。
 その背が、鬼堂にはこころなしか寂しげに見えた。


 その日、清顕は夕刻ちかくまで北の対屋にいて、見舞いと称して春日家にやってきた行昌も、ずいぶん長く待たされることになった。こんな場合、ふつうなら見舞いの品だけ置いて出直すのだが、なぜか行昌は清顕の顔を見てから帰ると言って、そのまま本殿の一室に居続けた。
 それは当然、鬼堂たちも同じで、信行に食事を運んでいった岷が侍所に戻ってきてからも、ずっとそのまま待機していた。
「ねー、もう、オレたちも部屋に戻ろうよー。用があったら、だれかが呼びにきてくれるよ」
「二度手間になるだろうが。時間の無駄だ」
「そんなの、たいしたことないじゃん。時間のムダって言うけどさー。それだったら伯爵さまだって、お方さまのお見舞いに行ったっきり帰ってこないなんて、じゅーぶん時間のムダじゃないの」
 岷が唇をとがらせた。
「物の怪騒ぎを起こして、さあ、向こうがどう出るかってときにさあ。早いとこ、こっちに作戦教えてくんないと、せっかくの魚が逃げちゃうかもよ」
 それはたしかに、そうだ。鬼堂も内心は焦り始めていた。今日はまだ桐野からの連絡もない。北の対屋でなにが起こっているのか、それだけでも知りたかった。
 清顕が単に、正室の見舞いに行っているだけとはとても思えない。見舞いなどは長くいればいいというものではない。かえって、病人を疲れさせてしまうことにもなりかねないのだから。
「あー、もう、まだるっこしいなー。オレ、ちょっと北の対屋を覗いてくる」
 痺れを切らした岷が立ち上がった。
「おい、よせ。迂闊なことをすると……」
「お待たせしました」
 戸の陰に、見知った男が現れた。桐野である。
「うわ……ちょっと、ギリギリまで気配消しとくの、やめてよね」
 岷が半ば本気で文句を言っている。
「失礼しました。こちらもいろいろ、事情がありますので」
 桐野はするりと房の中に入った。
「お館さまから、おふたかたを夕餉にご招待するとのお言葉を賜ってまいりました」
「え、オレたちが?」
「どういうことだよ」
「今宵、お館さまは菅大夫と膳を囲まれます。その席に、おふたかたにも加わっていただきたいと」
「だから、それはどういうことだと訊いている」
 いくぶん語気荒く言うと、桐野は懐から細かく畳んだ書状を取り出した。
「お館さまはこたびの一件を納めるため、春日家そのものを囮とするお覚悟をなさいました。詳細はこちらに」
 春日家を囮に、だと?
 鬼堂は文を受け取った。中に目を走らせる。横から岷も顔を出した。
「げ……」
 二日酔いの蛙のような声で、岷がうなった。鬼堂はぎろりと桐野を睨み、
「これでしくじったら、伯爵は自分の息子をふたりとも失うことになるぜ」
 冗談じゃねえ。あいつまで駒に使うつもりかよ。
「そのようなことは、ありえません」
「なんでだよ」
「御身さまにお任せするのですから」
 さらりと、桐野。
「……やな野郎だな」
 岷じゃねえが、こいつとは相性最悪だな。
 もっとも、相性のよしあしは仕事とはなんの関係もない。鬼堂は文を丸めて飲み込んだ。
「わかった。やってやるよ。……いいな、岷」
 横でげっそりとしている相棒に確認する。
「はあ、まあ、鬼堂ちゃんがやるんなら、オレもやるけどね〜」
 投げやりな調子で答える。桐野は頷いた。
「では、わたくしはこれで。夕餉の折は正装でお願いいたします」
「正装?」
「のちほど、こちらまで運ばせます」
 言い置いて、桐野は房を出ていった。岷が大袈裟にため息をついて、床に大の字になる。
 鬼堂もどっかりと腰を下ろし、これからのあれこれをしっかり頭に刻み込んだ。