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たまゆら by 近衛 遼
第十六帖
数日ぶりに、夢を見た。
目覚めたときには、なんとも情けない状態で。鬼堂は汚れた夜着をつくねて、洗濯籠に放り込んだ。
とりあえず、寝る前に「処置」はしたんだがな。
苦笑しつつ着替える。まあ、あんなもので、どうこうできるわけはないか。実際にはあいつは、ここにいないのだから。
あいつの声も表情も肌の感触も、奥に秘められた熱も。なにも感じることはできない。わずかな息遣いさえも。
「鬼堂ちゃーん、起きてる?」
扉の向こうから、声がした。しまった。朝餉の刻限に遅れたか。
「起きてるよ」
ことさら大きな声で答え、鬼堂は戸口へと向かった。
岷と信行がそれぞれ出かけていったあと、鬼堂は館うちの工作に着手した。
清興派と顕良派、それぞれを扇動する者たちに偽の文を送り、さらにはその両方に取り入っている人物にも罠を仕掛ける。清興と顕良が密かに連絡をとり、和解に向けて調停をしている、と。
「えー、それってちょっと、極端じゃない?」
鬼堂がその計画を口にしたとき、岷はそう言った。が、嘘は大きい方が真実味がある。
「真偽はともかく、そんな話を聞けば動かざるをえまいな」
信行は鬼堂の案を了承した。そして。
「あんたの仕事じゃねえとは思うんだけどよ」
清顕との「繋ぎ」である桐野に、鬼堂は書状を三通差し出した。この男は、日に一度は清顕の伝言を伝えたり、仕事の進み具合を見るために鬼堂に接触している。
「これ、頼むわ」
偽の文を配ってもらうのに、これほど適した者はいない。
「……たしかに、わたくしの役目からはいささか外れますが」
桐野は書状と鬼堂を見比べた。ややあって、それを受け取る。
「お館さまにお伺いしてからということで、よろしいですか」
「いいけど、今日中に届けてくれよ」
岷と信行が戻ってきたら、最終的な打ち合わせをせねばならない。
「うまくいきゃ、今夜にでも魚が網にかかるからな」
「わかりました。お館さまには、そのようにお伝えします」
いつものごとく、すばやく身を翻す。
使えるものは他人の駒でも使わねえとな。鬼堂は桐野の去った方向を眺めながら、思った。
さて、あとは岷たちの報告を待つだけだ。夕刻まで、昼寝でもするか。
眠れるときに眠っておくのも、仕事のうちだ。鬼堂たちのような生業の者は、次にいつ休めるかわからないのだから。
遣り水に沿って自室のある棟へと向かう。本殿横の渡殿をくぐって脇へと入ろうとしたところで、簀の子縁を歩いてくる女人を目にした。
従う侍女は五人。うち二人は軽装で、目配りの仕方からして、警護の女衛士であろうと思われた。
「何者か」
先導の侍女が、鬼堂の姿を認めて誰何した。仕方なく、ひざを折る。こういうときは、なんて言えばいいんだったかな。しばし思案したのち。
「信行卿のお役目をお助けするべく相勤めております、鬼堂と申しまする」
ほとんど台本の棒読みである。が、それを聞いて先導の侍女は小さく頷いた。
「大儀である」
そのまま通り過ぎるかと思ったら、
「待ちや」
黒地に菊の刺繍を施した上衣を着た女人が、その場を制した。
「しばし、控えておれ」
侍女たちに命じる。
「お方さま!」
先導の侍女が、青い顔をして言った。どうやら、この女人は春日家の正室、春日讃良(かすが ささら)であるらしい。
「聞こえなんだか。控えよ」
再度命じると、一同は簀の子縁の端まで下がった。
なんだよ、これは。鬼堂は頭を下げたまま、成り行きを窺った。
「鬼堂とやら」
讃良は張りのある声で言った。
「そなた、妾(わらわ)の命を奪いに来たのではないのかえ」
いきなりの問い。鬼堂は混乱した。俺がだれの命を奪うって? そんなこと知らねえよ。なんか勘違いしてんじゃねえか?
「ここ数日、いつそなたがわが首狙いに参るかと、生きた心地もせなんだが」
「馬鹿馬鹿しい」
思わず、鬼堂は呟いた。
「ばかばかしい?」
讃良は小首を傾げた。
「ああ、馬鹿馬鹿しいね」
鬼堂は顔を上げた。
「俺は萩野ってババアに、ここんちの物の怪退治を頼まれただけだ。そりゃ、俺たちゃいままで、いろんな仕事をしてるけどよ。あんたを殺れなんて依頼はどこからも受けてねえよ」
一気にそこまで言って、鬼堂は立ち上がった。讃良のうしろに控えていた女衛士が、小柄を構えて威嚇する。
それ、わかりすぎだぜ。もっと修練しなよ。
「話がそれだけだったら、行くぜ」
鬼堂が言うと、
「いまひとつ……」
いくぶん小さな声で、讃良。
「顕良は……息災か」
なんだよ、まったく。心の中でため息をつく。
親子そろって、同じことを訊きやがる。先日は、まひる。今日は讃良。
いや、それを言うなら、あのとき清興も似たようなことを言っていたか。
『なぜ、あやつは来ぬ』
あれは実は、顕良の身を案じての言葉だったのかもしれない。
わかんねえな。
あらためて、鬼堂は思った。だれも、顕良を悪くは思っていないのに。それなのに、どうしてこんなにねじれてしまったのか。
「ああ。元気だよ」
自分のせいで、少しばかり弱らせてしまったが。
「さようか。ならば、よい」
讃良はさらりと裾を捌いた。布沓の足音が遠ざかる。
この音は……。
鬼堂は記憶を辿った。これは、二度目に清顕卿に拝謁したときに聞いた衣擦れの音だ。では、あのとき同席していたのは讃良だったのか。
刺すようなきつい視線を感じた。自分を殺しに来たと思っていたのなら、それも頷ける。
一同が廊下を曲がっていく。鬼堂は大きく息をついて、自室へと向かった。
「てなわけでー」
その日の夕餉の席で、岷は自分が入手した情報を披露した。なんと岷は、じかに錦織男爵から神祇官の高官であるその人物を紹介してもらい、近々訪れる辺境の遺跡についての話を事細かに聞いてきたらしい。
「あれはシロだねー。春日家に出入りしてたのも、ここんちの書庫にそーゆー書物がいっぱいあったからみたいだし、人がいいから、やたらとあちこちの茶会や園遊会に顔出してただけで、ウラでどうこうやってたとはとても思えないねー」
「おまえ、よくひとりでそんなこと……」
鬼堂はげんなりと言った。まさか、直接本人に会って探りを入れるとは。
「だーって、男爵さまとは顔繋ぎできてたし、先生の名前出したら、一発オッケーだったんだもん」
こいつ、もしかして、そのためにこの数日、信行と行動をともにしていたのかも。
いまさらながらに侮れないものを感じつつ、鬼堂はちまちまと煮豆を口に運んだ。
「菅子爵の話では……」
信行が淡々と言った。
「坊城兼平という人物は、最近勤めを休むことが多いらしい。持病を理由としてはいるが、そのあたりは定かではないということで、近々審問をするという話も出ている」
「それって、よーするにズル休み?」
岷の言葉に、信行は頷いた。
「坊城どのの欠勤は、当家の物の怪騒ぎが一段落したころからのもの。思惑が外れて、心穏やかでいられなくなったのかもしれんな」
「あーあ、肝っ玉小さいねー」
岷は鴨の薫製をぱくりと食べて、
「そーんなやつ、さっさとやっつけちゃおうよ。ね、鬼堂ちゃーん」
「……ああ、そうだな」
鬼堂は白湯をひと口飲んで、言った。
「たぶん、今日明日のうちに雑魚が動く」
「んじゃ、あさってには……」
目をらんらんと輝かせて、岷。
「坊城家に、その余波が届くだろうな」
「では、お館さまにそのように言上しておこう」
信行は杯を置いて、立ち上がった。
「御身らは、そのままで。前祝いでもしていてくれ」
ゆるりと笑んで、房を出ていく。
ようやくゴールが見えてきた。あと少しで方が付く。
『ご無事をお祈りしています』
守り袋を手に、あいつは言った。
『後払い、しっかり払ってもらうからな』
振り向きもせず、自分は言った。
そうだ。この仕事が終われば、俺は……。
鬼堂はまるで酒をあおるように、白湯を一気に飲み干した。
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