たまゆら by 近衛 遼 第十四帖 春日家の本宅は、当然ながら広かった。 本殿のほかに東、西、北、東北に四つの対屋を持ち、ほかにも茶室や観月の舞台や社や衛士の詰め所など、いくつかの建物がある。鬼堂は南庭の反対側から東の対屋へと続く道を歩いていった。 先刻、まひるが言っていたように、冬にしては穏やかな日だ。枯色の木々の中に何本か常緑樹があるらしく、ところどころ鮮明な印象を与えている。 景色だけ見ていると、とてもこの屋敷に禍々しい念が巣喰っているとは思えない。つまるところ、諸悪の根源は自然ではなく人なのだろう。 枯れ葉を踏みながら、池に面した四阿の横を通りすぎようとしたとき。 「しばしお待ちを」 横から、声がした。瞬時に防戦態勢をとる。 「失礼いたしました。気配を消したままでしたね」 四阿の陰から、男が現れた。 「おまえは……」 今朝方、鬼堂を広間まで先導した男だ。昨日は清顕卿のうしろに控えていた。鬼堂は清顕の近侍だろうと思っていたのだが、この状況ではそうとも言い難い。 「申し遅れました。わたくしは桐野と申します。いまは春日家にお仕えする身」 いまは……ねえ。てことは、以前はそうじゃなかったわけだ。鬼堂は構えを解かずに、男を見据えた。 丁寧に礼をとっているが、足の位置からして、いつでも動けるように気を配っている。気配の消し方といい、単なる侍者とは思えなかった。 まったく、この家は曲もの揃いだぜ。 鬼堂は心の中でため息をついた。もしかしたら、あの猪突猛進な野郎がいちばんまともかも……。 そんなことを考えていると、桐野と名乗った男は紙縒りのようなものを懐から取り出した。 「これを」 「……なんだよ」 「お館さまの文にございます」 桐野は鬼堂の両眼をしっかと見つめて、言った。 「今後、お館さまと御身さまとの『繋ぎ』は、わたくしが承ります」 なるほどな。春日伯爵ともあろう者が、しょっちゅう新参者の衛士と接見するわけにもいかず、かといって昨夜のような術は頻繁には使えない。そのための「繋ぎ」として、この男が差し向けられたわけか。 それにしても。 鬼堂は、ある疑問をいだいた。だとすれば、信行は……。 「ひとつ、訊くけどよ」 「はい。なにか」 「伯爵は、あいつを信用してないってことかい」 鬼堂たちへの指示なら、信行を通じて行なえばいい。それを、わざわざこのような手段をとったのは、清顕にとって、信行に知られたくないなにかがあるのかもしれない。 「それは、わたくしなどが申し上げることではありません」 桐野は紙縒りを手にしたままの姿勢で、言った。 「ただ……」 「ただ?」 「お館さまは、御身さまとじかにお話をなさりたい由」 それが、かなわぬのであれば。 苦肉の策として、自分の近侍を文遣いとしたということか。 鬼堂は紙縒りを受け取った。指先で開いて、中を確認する。そこには、いくつかの名前が並んでいた。 「承知したと、伯爵に伝えてくれ」 ああ、わかったよ。こいつらの行状を調べればいいんだろ。 「は。では」 一礼すると、桐野は四阿の裏からするりと身を翻した。まばたきするうちに、その姿が池の向こうへと消える。 鬼堂はそこに書かれた名前を脳裡に刻み込み、紙縒りを飲み込んだ。 その日の夜。 信行の私室で夕餉を摂りながら、三人はさらに細かい打ち合わせをした。 術の指南を受けた岷はかなり疲れたらしく、いつもの軽口は影をひそめている。ただ黙々と食事を口に運び、信行の話にこくこくと頷いていた。 紙縒りの件は、信行には言わぬ方がいいだろう。そう判断して、鬼堂はあえて調べるべき人物の名を口にしなかった。が。 「……以上の五名が、今回の件になんらかの関わりがあると思われる」 信行が挙げた名は、見事に清顕のそれと一致していた。 一瞬、信行にも清顕から指示が出ているのかと思ったが、それならあんな手間をかけて、自分に文を渡す必要はあるまい。 「とくに先の二名は官位も高く、うかつなことはできない。くれぐれも事は慎重にな」 「わかってるよ」 煮物を咀嚼しながら、鬼堂は言った。 「そっちはあんたにまかせる。俺たちは、あとの三人を調べてみる。それでいいな、岷?」 「んー、それだと、先生の負担が多すぎない?」 こちらももぐもぐと酢の物を口にしつつ、言う。 「だったら、おまえ、兵衛府参議や神祇官のお偉いさんの屋敷に忍び込んで、裏ネタのひとつも拾ってくるか?」 「……それはイヤかも」 以前、顕良の文を届けるために春日家に来たときのことを思い出したのか、岷は露骨に顔をしかめた。 「遮蔽結界だけならともかく、あーんな危ないマネ、二度とご免だよ」 やつあたりのように、粥をかっ込む。一気に椀を空にして、 「あー、うまかった。ごちそうさま〜」 食事中、無駄口を叩かなかったせいか、やたらと食べ終わるのが早い。信行は作法通りに箸を置き、 「私は明日、兵衛府に出かけてくる」 「はいはーい。ヨロシクね」 腹が満たされて、いくぶん元気になった岷が答えた。 「おれたちは、雑魚つついてみるから。ね、鬼堂ちゃん」 話を振られた鬼堂は、ゆっくりと白湯を飲み干してから立ち上がった。 「どしたの、鬼堂ちゃん」 「寝る」 「え、もう? まだ宵の口じゃん。飲み直し、しようよー」 「仕事中だぞ」 「それはそーだけどさー」 「術は、もう完璧なのか?」 「え、まあ、だいたい……」 もぞもぞと口ごもる。阿呆。なにが「だいたい」だ。こいつがこういう物言いをするときは、たいてい「全然」できてないことが多い。酒なんか飲んでる暇はねえだろうが。 「じゃあな」 言い捨てて、部屋を出る。信行はなにも言わなかった。おそらく、鬼堂と似たような感想を持ったのだろう。当ての外れた岷も、そそくさと席を立った。 「待ってよ、鬼堂ちゃん〜」 ぱたぱたと後を追ってくる。二人はしばらく無言で歩いた。渡殿を過ぎて、自分たちに与えられた房の近くまで来たところで、 『岷』 歩を止めず、鬼堂は遠話を投げた。岷がちらりと横を見て、 『なーに』 『じつはな』 四阿での一件を、端的に告げる。栗色の目がわずかに見開かれた。 『ふーん、そんなことがあったの。じゃあ……』 岷はにんまりと笑った。 『オレ、先生ともーっと仲良くしないとね〜』 『おい、おまえ……』 「じゃ、おやすみっ。またあしたねー」 ことさら明るくそう言うと、岷は自室へと入っていった。 |