たまゆら  by 近衛 遼




第十二帖

 翌朝。途中で寝入ってしまったことを恥じた伎女が、髪を切り落とそうとするのをなんとか止めて、鬼堂はその伎女にいくばくかの金子を渡した。
「あれは、俺がやったことだからいいんだよ」
 清顕卿のことを言うわけにはいかない。仕方なく、鬼堂は自分が術を使って伎女の意識を奪ったことにした。それを聞いた伎女は、やっと納得したらしく、
「なにごとも、主さまの思し召しとあれば」
 あでやかに笑み、厨から運ばれてきた朝餉を上座にしつらえた。どうやら、朝餉の給仕までが伎女たちの仕事であったらしい。
 山荘で摂っていた食事より、いくぶん味付けの濃いそれを食したあと、伎女はさも名残惜しげに退出のあいさつをした。
「ご縁あって、お側に侍ることかないまして、ありがたく存じます。願わくはいまひとたびのご縁がごさいますよう」
 名を訊くこともしなかったが、たしかにこれも縁であろう。鬼堂は頷いた。
「ああ。またな」
 たとえ一夜の相手でも、いつも鬼堂はそう言っていた。伎女はにっこりと微笑んで、房を辞した。
 残り香が漂う。鬼堂はすっくと立ち上がり、格子を上げた。扉も大きく開け放つ。やや冷たい風が、房を吹き抜けた。
『明朝、おぬしらを召す』
 清顕はそう言った。ならば、まもなく……。
「失礼いたしまする」
 中庭を眺めていた鬼堂の背に、声がかけられた。
「急ぎ、本殿にお越しくださいますよう」
 それは昨日、接見の間で清顕卿のうしろにいた男だった。おそらく、清顕卿の側近であろう。戸口に立って、鬼堂が出てくるのを待っている。
「いま行く」
 上衣を手に、鬼堂は答えた。いささか着崩してはいるが、仕方がない。そのまま昨日清顕卿に接見した広間へと向かった。
「あら〜、鬼堂ちゃん。無事だった?」
 途中で、やたらときっちりとした装束に身を包んだ岷が、鬼堂にひらひらと手を振った。
「鬼堂ちゃんのことだから、無礼討ちにされてんじゃないかって心配してたのよー」
 どうやらすでに、昨夜の清興の行状は知れ渡っているらしい。
「春日家には春日家のしきたりがあるからって、オレに付いてくれたおねーさんが懇切丁寧に教えてくれてねー。で、今朝は拝頭礼の練習まで一緒にしちゃったよん」
「……なんだ、そりゃ」
「えーっ、鬼堂ちゃん、教えてもらわなかったの?」
「んなヒマ、なかったからな」
 朝っぱらから、髪を下ろすとか死んでお詫びするとか言う伎女をなだめていたのだ。どうして自分がこんなことをしなくちゃいけないのかとは思ったが、実際に責めを負う必要はないのだから、止めねばなるまい。
「へーっ、意外だねー。鬼堂ちゃん、すっかりあっち方面にハマって、おねーさんには興味ないかと思ってたのに……」
 馬鹿野郎。いま、そんなことを言うんじゃねえ。
 心の声が聞こえたのか、岷は慌てて視線をそらした。
「ごめーん。ただ……」
 そ知らぬ顔で、岷は遠話を投げた。
『今日は、伯爵さまだけじゃないみたいよ』
 遠話に遮蔽結界が張られている。これはかなり、覚悟しとかねえとな。
 鬼堂は頷いた。岷はまるで宮仕えの文官のような顔をして、するすると流れるように廊下を進んでいった。


 岷の言葉通り。
 接見の間には御簾が下げられ、その奥に何人かの影が見えた。
「大儀である」
 奥から、清顕の声がした。
「あののち、さまざまなことを考えてみたが……」
 さらりと扇が横に流れる。
「おぬしらにも働いてもらおうと思うての」
 ぱちり、と扇が閉じられた。左の扉が開き、長衣姿の男が入ってきた。
「この者は、中務信行(なかつかさ のぶゆき)という。せんだっての物の怪騒ぎのおりに調伏を頼んだのじゃが、不首尾に終わってな」
「わが身が至りませず、お館さまにはますますのお悩み、まことに申し訳なく思うております」
 抑揚のない口調で、信行は言った。
 栗色の髪と薄い灰色の瞳。黒髪黒眼が主流の和の国においては、いささか異質な印象である。岷などはもともと南方の波里(はり)の国の血が混じっているらしいから、朱髪であっても不思議ではないが。
 そんなことを考えていると、
「なんの。失敗は成功の元。なにが誤っていたかを知ればよい」
 清顕は席を立った。
「その方ら、信行と諮って事を成すよう」
「……」
 鬼堂は無言のまま、両手を額につけて頭を下げた。岷に教わった、拝頭礼である。横では岷も、同じく拝礼している。
 清顕が退出する。そのあとを、女人の衣擦れと布沓の音。房を出る前に、その音が一瞬途切れた。刺すような視線を感じる。が、鬼堂は頭を上げなかった。
 するすると、衣擦れは遠ざかっていく。それが聞こえなくなったころ。
「あらためて、ごあいさつ申し上げる」
 横から、栗色の髪の術者が言った。
「中務信行と申しまする。なにぶん、よしなに」
「ということは、中務侯爵家に縁あるかたで?」
 こっそりと、岷が訊ねた。信行はくすりと笑って、
「名前は許されましたが……それだけです」
 なにやら、こっちもイロイロあるらしい。鬼堂は肩をとんとんと叩き、
「んじゃ、まず、あんたの知ってることを話してもらおう」
 先刻まで拝頭礼をしていた鬼堂が、ぱたぱたとひざを叩いて立ち上がった。侯爵家の縁者であるらしい信行に対しても、まったく遠慮はない。
「実際、物の怪なんてモンはいるのかい」
 いきなり核心である。
「御身は、いないと思うのか?」
 信行の口調が変わった。なんとも対応が早い。どうやら、生粋の貴族というわけではなさそうだ。
「いないとは言わねえ。ただ……」
 がしがしと頭をかいて、続ける。
「ほとんどは、生きてる人間のまやかしじゃねえのか?」
「たとえば、私のような術者の?」
「ありえる話だろ」
 よしんば、こいつがそういう物の怪騒ぎを起こしていないとしても、同じような力を持つ術者は大勢いるのだ。岷だとて、幻覚や幻聴を起こしたり、あたりのものを動かしたり飛ばしたりするぐらいはできるのだから。
「術を使うんでなくても、一服盛って錯乱させりゃ、柳だって幽霊に見えるからな」
 その類の話は、人から人へと伝わるうちに尾ひれがついて大きくなり、さらにそれぞれの憶測が加わって、はてしなくねじれていくものだ。
「たしかに。人間という生き物は、たいそう心弱きものだからな」
 くすりと笑って、信行は続けた。
「それにつけ込む輩も多い」
「だったら、話は早い」
 鬼堂は声を落とした。
「春日家を潰したいと思ってるやつを、探せばいいだけだ」
「ちょっ……ちょっと、鬼堂ちゃんてば、そーゆーこと大っぴらに言わないでよ〜」
 岷が慌てて、印を組んだ。遮蔽結界である。が。
「あらら……」
 岷の結界が、なんらかの力によって中和されてしまった。信行が苦笑する。
「失礼。どうやら、私の結界と御身の結界は質が異なるらしい」
 質の違う結界を重ねると、効果が半減したり、逆に暴走したりする場合がある。
「えーっ、もう結界張ってたの?」
 岷の方も常の口調に戻っている。
「いったい、いつのまに……」
「お館さまが退出なされた直後」
「オレたちが、まだアタマ下げてたとき?」
「その通り」
「素早いねー。まいったまいった」
 大袈裟に、岷が両手を挙げた。
 これは、相当手強い。鬼堂は思った。岷と組んで仕事をするようになってから、それなりに結界術の知識はつけたはずだが、この男の結界にはまるで違和感を感じなかった。存在感がないとでもいうのだろうか。
 こいつを敵に回したら、厄介だな。気づかぬうちに攻撃結界を張られて、一発でアウトってことも……。
「ねえねえ、それって、どんな印組むの?」
 横では岷が、さっそく信行に質問していた。
「やっぱ、一緒に仕事するんだからさー。術とか同調させとかないとヤバいじゃん」
 なんとも立派な建て前だ。実際は、術を盗みたいだけかもしれないが。
「あー、でも、ここで練習して失敗したら、それこそヤバいかな」
「外に出りゃいいだろ」
 鬼堂が口をはさむ。
「そうねー。じゃ、先生。行こ行こ」
「先生?」
 信行が眉をひそめた。
「え、だって、術教えてもらうんだから『先生』でしょ。ね、鬼堂ちゃーん」
 すっかり岷のペースである。
 やたらとハイテンションな赤毛の男を先頭に、三人は広間を出ていった。