孤の螺旋
  by近衛 遼




ACT9

 東雲城の接見の間。
 英泉が見た東雲卿の顔は、ひどく不機嫌だった。
 結局のところ、この男は宗の公卿だ。江の国主が期待しているほどは、江に肩入れしているわけではないのかもしれない。
「大事ないと言うでおるに。度を越したる懸念は不快じゃ」
 ついいましがた英泉が供した文を脇へ打ち遣り、東雲卿は懸盤の上の盃に手をのばした。小姓がそれに酒を注ぐ。
「あきんどがなにほどのものか。これじゃから成り上がり者は困る」
 江の国は小国ではあるが、国主はもう十代近く続いた家柄である。決して成り上がりとは言えないが、今上で三十七代目に当たる宗の国からしてれば、まだまだひよっ子なのだろう。
「下々の顔色ばかり見ておっては、いずれ国を傾けることとなろうぞ」
「お言葉、慎みまして」
 英泉は着物の袖をさらりと捌いて拝礼した。
「わがあるじに、為すべき道を賜りますよう」
 東雲卿の思惑はどのあたりにあるのか。遠回しに意向を伺う。
「ふむ。そうじゃの」
 盃を弄びながら、東雲卿は視線を外に向けた。
「まもなく雪も解けようほどに、宴の支度でもしやれ」
「御意」
 江の国の「座」を潰すつもりか。そんなことをすれば、江の国力は大幅に減少する。そのあとを補うのは……。
 そうか。東雲卿は西郷寺を取り込んだのだ。あの、生臭坊主たちを。
 英泉は納得した。そういえば、東雲卿はなんとなく西郷寺の門主に似ている。自分がいちばん正しいと考えている種類の人間。ことさら力を誇示して、他を従わせようとする。
 おそらく今回も、そうするつもりなのだろう。江の国主は商人の台頭に危惧をいだいているから、東雲卿からの打診は渡りに船だったとも言える。
 宗の国と西郷寺の密約の内容を、もう少し詳しく知りたい。水木からは深入りしないようにと言われていたが、英泉は思い切って口を開いた。
「おそれながら」
 あくまでも控え目に上申する。東雲卿は盃を置いた。
「なんじゃ」
「宴に添えます花は、梅にございましょうや。それとも桃か、あるいは……」
 それによって、「座」に仕掛ける時期がおおよそわかる。
「ほほ。御許(おもと)は気が早いのう」
 低姿勢に徹したのが功を奏したのか、あるいは酒が入ったせいか、東雲卿はいくらか機嫌を取り戻して、小さく笑った。
「いくらなんでも、梅見の宴というわけにはゆかぬわ。このあたりではまだ蕾じゃが、南方では盛りであろうが」
 たしかに、江の都ではそろそろ見頃だろう。
「されば、桃の節句のころに?」
「無粋な者どもが邪魔をせねば、のう」
「……お館さまに、神仏のご加護がございますように」
 英泉は再び、深々と頭を下げた。


 ここまではうまくいった。
 控えの間で返書を待つあいだ、英泉は東雲卿から聞いた話を反芻していた。
 宗の国は、あとひと月あまりのあいだに江の国の「座」を潰すつもりだ。東雲卿の自信ありげな物言いからして、すでに下準備はできているはず。
 典笙のような「座」の有力者の中に、宗に抱き込まれた者がいるのかもしれない。そのことは源杖も懸念していたが、実態は掴めたのだろうか。
 できれば、いますぐこの場を辞して城を出たい。が、返書も持たずに退出しては疑われるし、水木たちの仕事にも差し支える。
「実利主義のやつらの中には、江の国から袖の下をもらってる輩がいてねー。で、それを面白く思ってないバリバリの宗至上主義なやつらもいるワケ。殿様もけっこう綱渡りなことやってんのよ」
 水木はそう言っていたが、いま、どのあたりにいるのだろう。西の丸と二の丸を重点的に探るという話だったが。
 つらつらと考えていると、襖の向こうに人の気配がした。居住まいを正して、礼をとる。
「お待たせした」
 やや粘着質の声とともに、襖が開いた。文箱を手にした大柄な男が座敷に足を踏み入れる。武人のような足取りでずかずかと進み、英泉の前に立った。
「お館よりの返書を持参したが……必要か?」
「は?」
 意味を計りかね、顔を上げる。
「ずいぶんと思い切ったことをなさいましたな。……鑑公」
「……!」
 英泉は横に飛び退いた。床に小柄が突き刺さる。
 何者だ。この男は。自分の顔を知っている者など、槐の国内でもごく限られているというのに。
「まこと、御身は手強かった。さすがは夕(せき)公のご子息と、感心いたしましたぞ」
 「夕公」とは、宜汪のことだ。この男は父を見知っているのか。それに、「手強かった」だと?
 自分はこの男と刃を交えたことがあるのだろうか。否。そんなはずはない。英泉はいままで、天坐の砦を出て実戦に参加したことはないのだから。
 疑問が次々と浮かぶ。男はにんまりと笑った。
『縛』
 一瞬の隙をついて、術がかけられた。文筥の陰で印を組んでいたらしい。
 男は文筥を横に投げて、英泉の首に手をやった。
「夕公と同じ『呪』を、御身にも差し上げよう」
 この声。この眼。そして、黒く禍々しい「気」。
「ま……さか……」
 なぜすぐに気づかなかったのか。
 英泉は自分の迂闊さを恥じた。これは、あのとき宜汪の中にいた男だ。宜汪に「呪」を封じ、それを発動させ、天坐の同胞の多くを死に至らしめた……。
 首の周りに異様な圧迫感。男の指先から幾筋もの糸のような邪気が発せられている。かすかに、「傀儡」の術の口呪が聞こえた。
 だめだ。このままでは、自分も宜汪のように悪鬼と化してしまう。

 父上。私に力を。
 私が私であるうちに、すべての始末がつけられるように。
 皆に迷惑をかけるわけにはいかない。私を許し、受け入れてくれた者たちのためにも、いま、ここでこの身を処さなくては。

 結界の外に向けて術を放つのは、相当の力量と技術がいる。が、中に向けて発するのは、さほど難しいことではない。たとえ緊縛術をかけられていても。
 音にするまでもない口呪。宜汪に教えられたそれに「気」を乗せ、増幅させて。
 英泉は微笑んだ。これで、宜汪の手にかかった幾多の命にも償うことができるかもしれない。
 目の前の男が異変に気づいた。遅い。もう間に合わない。結界を解いている暇など与えるものか。さあ。


 閃光が走る。屋根を突き抜け、壁を破って。
 轟音とともに柱が倒れ、数瞬ののち、対の屋は全壊した。