孤の螺旋 by近衛 遼 ACT8 天峰連山の東側を進み、都の西の街道を北上してから東に折れると東雲の荘である。再び水木とともに砦を出た英泉は、いま、国境近くの山中にいた。 江の国の細作が隠し持っていた書状を使い、偽の使者を仕立てて東雲の城に入り込もうと提案したのは水木だった。が、西方系の顔立ちをしている彼が江の使者になりすますのは難しく、英泉がその役を買って出た。 「先般とはわけが違いますぞ」 源杖をはじめとする砦の古参の者たちは口々に反対した。当然である。宗の国と槐の国は、おせじにも友好的な関係を結んでいるとは言い難い。槐の王族が極秘に入国したと知れば、その身柄を拘束するおそれは多分にある。 「いま少し、ご身分をお考えくださりませ」 源杖の諫言に、英泉は籐司直筆の文をもって応じた。 曰く。『御身の筆のおもむくままに』。 「こたびの件に関して、御上は私をご信頼くださっている。それに、和の国の助力ばかりを当てにしていては、槐六家の名折れであろう」 最終的には英泉の主張が通り、先に江の国に潜入したときと同じく、絡が護衛につくことで周囲も納得した。 その軍議のさなか。 英泉の隣席にすわるはずの煉瓦色の髪の男は、すでに退出していた。あとから逓に聞いたところによると、早々に東雲行きの準備を命じていたらしい。 源杖がもう少し強硬に反対していれば、英泉も無理を通すことはなかったというのに。 「お待たせ〜」 うしろから、軽やかな声。肩や髪にかかった雪を払いつつ、水木が窟に戻ってきた。 「ごめんねー。遅くなっちゃって。タンパク質を獲ってきたわよ」 右手には、野ウサギが一羽ぶらさがっている。英泉はわずかに眉をひそめた。 「あら、ウサギは苦手だった?」 「いいえ。そうではなくて……携帯食料があるのに、なにもわざわざ狩りをしなくても」 「なに言ってんの。あーんなマズいもん、無理して食べなくてもいいわよ」 水木は手際よくウサギをさばいた。 「現場で食料が調達できるうちは、ウサギでも鳥でも魚でも、自然のものを食べなくっちゃねー。携帯食は非常用よ」 串に肉を刺して、焼く。しばらくして、肉の焦げるいい匂いがしてきた。 「んー、そろそろかしらね。ほら、英泉。塩と胡椒と……あ、山椒もあるわ。どれにする?」 小さな缶が差し出された。しばらく迷ったのち、塩をひとつまみ取って肉に振りかける。 水木はすでに肉を口に運んでいた。ぱくぱくと、じつに旨そうに食べている。 「どうしたの? 早く食べなさいよ。冷めると不味くなるわよ」 促されて、英泉は肉をひとくちかじった。肉汁が口の中に広がる。 焼き立ての肉を食べるのは久しぶりだった。砦では常に、毒見の済んだものが膳に供されていたから。 「あ、外のお兄さんにも分けてあげなくっちゃ。匂いだけじゃお腹いっぱいになんないもんねー」 絡は表で見張りに立っている。水木はもぐもぐと口を動かしながら、肉を一串と白湯を持って外に出ていった。 食後。 「あしたの昼には、東雲の城に着けるかしらね」 水木は焚き火の横に地形図を広げた。 「衣装、ちゃんと揃ってる?」 「はい。逓が用意をしてくれましたから」 宗の国は礼儀作法や装束にうるさい。文官は小袖に袴に上衣を五枚重ねるのが登城の際のしきたりだ。 「城下に入ったら、着替えますので……」 「はいはい。そんときは、アタシが手伝ってあげよっか」 「え、それは……」 「じょーだんよ、冗談。いくらアタシだって、そこまではしないって」 くすくすと笑いながら、水木は英泉の腕を軽く叩いた。 槐の国の貴人には、肉親や側仕えの者以外に肌をさらすのを恥とする風習がある。幼年期を市井で過ごした英泉にはそういう感覚はまったくなかったのだが、王族や貴族たちのあいだではそれが当然とされていた。 英泉の父は比較的進歩的な考えを持つ人物だったが、その宜汪でさえも、人前で顕な格好をしたり着替えたりするのは控えるよう息子に注意した。 しきたりには無意味なものも多いが、大多数の暗黙の了解の上に存在意義を持つものもある。何事も一刀両断というわけにはいかない。 「あんたが殿様とご対面しているあいだに、アタシは『江の使者』が来たと知った側近たちがどう動くか探るわ。ま、だいたいの勢力分布はもうわかってるけどね〜」 「勢力分布?」 「いやあねー、斎が先発隊でお城に入ってんのよ。それぐらいのこと、とっくに筒抜けよ」 それは、そうか。御影本部の切り札とも称されている二人である。自分たちの気づかぬうちに、遠話で連絡を取り合っていたのだろう。 「あ、でも、だからってあんたたちを出し抜こうってんじゃないわよ。まだウラが取れてないから黙ってただけ」 「わかってますよ」 英泉は頷いた。そんなことは露ほども思っていない。この人の言葉は、いつも真実だから。 「私も、東雲卿からなにか情報を取れるように微力を尽くします」 「もう、あんたってコは、またそーゆーこと言って」 水木は英泉の額をピン、と人差し指で弾いた。 「過信するのはバカだけどね。やたらと謙遜するのもいただけないわよ。とくにあんたは、自分を過少評価しすぎんのよ」 ふーっ、と大きなため息をついて、水木は前髪をかき上げた。 「ま、あんまり鼻高々になってもかわいくないけど」 ウィンクをして肩をすくめる。と、そのとき。 「交代の時間です」 窟の外から声がした。絡だ。水木はひょいと立ち上がり、 「はいはい、いま行くわよ。……じゃ、英泉。先に休んでてね〜」 投げキッスをひとつ。英泉は微笑みで、それに答えた。 「水木さん!」 翌日の午後。東雲の城のすぐ近くにある、とある茶屋の一室で、水木の「対」である黒髪の青年が一行を出迎えた。 「ご無事でなによりです」 「それはアタシのセリフよ。よくやったわね」 「いえ、そんな……お役に立ててうれしいです」 きっちりと一礼する。 もともと今回の仕事は水木が単独で受けたものだ。そこに半ば押しかけのような形でやってきたものだから、斎としてはいささか居心地が悪かったのかもしれない。こうして無事に物見の役割を果たし、幾分気が楽になったように見受けられた。 「城ん中の様子はあいかわらず?」 水木が訊くと、斎はこっくりと頷いた。 「一刻ほど前までは、とくに異状はありませんでした」 「そ。だったら、予定通りにいくわよ」 水木は城の見取り図を卓の上に広げた。 「何事もなく殿様の返書を受け取れたらそれに越したことはないけど、もしもの場合の退路は複数確保しておかなきゃね」 いくつかのルートを確認する。 「遠話の波長はアタシに合わせて。あ、でも、お城にも術者はいるだろうから、これはあくまでも緊急用ってことでヨロシクね」 「わかりました」 英泉は頷いた。すでに文官の正装に着替え、髪も高い位置で頭巾でまとめている。 「おそれながら」 縁側から、ひっそりとした声がした。 「輿の用意が整いました」 江の使者として、城の本丸に向かうためのしつらえである。東雲の荘にも槐の国の息のかかった者はいるのだ。 絡がそっと障子を開けて、沓脱ぎ石の横に平伏する男に輿を庭先に回すよう告げた。 「かしこまりました」 ひれ伏したまま、下がる。 「さーて、やっと本番だわね」 英泉が着替えているあいだに化粧とヘアメイクを済ませた水木が、意気揚々と戦闘開始を宣言した。 |