孤の螺旋 by近衛 遼 ACT10 熱い。熱い。 地獄にいるのだろうか。自分は。 さもあらん。この身が天に召されて、高みで安らぐことなどありえない。なにひとつ、おのが手で成し得たこともなく、ただ皆に頼って生きてきた。こんな卑小な存在が。 苦しい。なにかが頭の中で暴れている。のどを突き破っていく。どろどろとした邪な念が全身を駆け巡る。 ザン、と、真一文字に斬られたような気がした。 赤。紅。緋。朱。丹。 底知れぬ闇の中で、いくつもの「赤」が炸裂する。それらが一斉に頭上から降り注いで。 ああ。やっと、終わる。 英泉は妙に穏やかな気持ちで、そう思った。 遠くで、鳥の声。闇の色が徐々に薄くなっていく。 閉ざされていた視界が、わずかずつではあるが開けてきた。牀の幕の隙間から、細く淡い光が差し込んでいる。 まさか。 ぼんやりと、英泉はその光景を眺めた。 朝……なのか? ゆっくりと息を吸う。息を吐く。それを何度か繰り返す。 夢ではない。これは現実。自分は、まだ生きている。 あれからいったい、なにがあったのだろう。東雲の城で、あの術者に正体を見破られてから。 水木たちは無事だろうか。御影本部の切り札とも言われている二人である。大丈夫だとは思うが、もし自分を助けるために怪我のひとつもしていたら。 なにしろ、英泉は死ぬつもりだったのだ。当然、周囲のことなど気にしている余裕はなかった。自分が命を取り留めたということは、彼らが東雲の城から自分を救い出してくれたにほかならない。 あれこれ考えていると、扉の開く音がした。牀の幕がするりと上げられる。 「英泉さま……」 手水鉢を手にした逓が、息を飲んだ。まじまじと主君の顔を見て、 「お気がつかれたのですね。臣(わたくし)のこと、おわかりになりますか」 「逓……」 なんとか、声が出た。逓はほっとした顔で、 「よろしゅうございました。本当に……」 声を詰まらせている。どうやら、ずいぶん心配をかけてしまったらしい。 「すまなかった」 「いいえ。もったいない」 あわてて、視線を下げる。臣下の作法を思い出したらしい。 「すぐに朝餉の用意をいたします。いましばらくお待ちくださりませ」 手水鉢を側卓に置いて、下がる。英泉はそっと上体を起こした。 「……っ!」 全身に痛みが走る。どこがどうなっているのかすら、よくわからなかった。体中が悲鳴を上げているようだ。 「あー、まだ無理ですって」 聞き覚えのある濁声が降ってきた。源宇だ。 「お目覚めになったと聞いたんですがね。動き回るのはちょっとマズイと思いますよ。打撲に裂傷に擦傷に火傷。それに内蔵にも相当ダメージを受けてるたいですし。骨折がなかったのが奇跡みたいなもんですからねえ」 あっさりと、恐ろしいことを言う。 「まったく、今度ばかりは肝を冷やしましたよ。一年もたたないうちに、二度も主上を失うかと思うと」 「源宇……」 そうだった。宜汪が没してから、まだ十一カ月である。 「間違いなく、三年は寿命が縮まりましたからね。来月から俸給を上げてくださいよ。でないと、女房や子供が泣きますんで」 冗談まじりにそう言って、源宇はそっと英泉の背を支えた。 「着替えるんなら、手伝いましょうか?」 牀の足下には、すでに衣類が整えてある。 「いや、いい。それよりも……」 「は?」 「如月どのは、どうしている」 先刻から気になっていたことを、問う。源宇は英泉の肩に上衣を着せかけて、 「ああ、姐さんも坊ちゃんも、ピンピンしてますよ。さすが御影本部の切り札だけのことはありますねえ。西の丸の寝殿と本丸の大門と、ついでに蔵をひとつ丸焦げにしてきたってんですから」 なんとも、派手なことをしたものだ。 「ちょっとばかりやりすぎの感もありますが、おかげであなたを救出できたわけですし。それにもうひとつ、新しい仕事を引き受けてもらいましたんで、こちらとしては万々歳ですよ」 「もうひとつ?」 「ええ。姐さんたちは、西郷寺を脅しに行ってます。そろそろ着くころじゃないですかね」 「では、やはり宗の国は西郷寺を抱き込んだのか」 東雲卿から聞いた話を思い出しながら、英泉は問うた。 「ま、そんなとこでしょう。城ん中には、西郷寺の坊主がうようよいたそうですから」 にんまりと笑って、源宇は話を続けた。 「姐さん、妙に張り切ってましたよ。生臭坊主の出鼻をくじいて、江の国主に一泡ふかせてやるって」 そういえば、水木は江の国主をよく思っていなかった。多分に私情が混じっているような気もするが、水木なら立派に任務を果たすだろう。これまでずっとそうだった。それにいまは、「ひとり」ではないのだ。 桐野斎。あの真摯な瞳をした「御影」が側にいる。 「勢いあまって、門主の首を獲ったりしなきゃいいんですが……ま、坊ちゃんも一緒だから、大丈夫だとは思いますがね」 源宇も同じように考えているらしい。英泉は頷いた。 「大儀であった。西郷寺についてはそれでよしとして、あとは『座』の監視を強化するように」 「『座』ですか? いまんとこ、典笙どのがにらみをきかせてくれてますが」 「それだけでは、危うい」 英泉は、東雲卿が桃の節句までに「座」を潰す算段をしていることを告げた。 「ありゃまあ、そりゃ大層なことで」 「今夕、この件に関しての軍議を開く。その旨、各部に……」 「今日一日は、休んだ方がよかないですか?」 源宇が頭をかきながら、言った。 「なんたって、足掛け三日も意識がなかったんですから」 もう、そんなに日にちがたっているのか。ならばなおさら、ゆっくりしてはいられない。 「かまわぬ」 「ですが……」 「陽参議」 英泉は源宇を官職名で呼んだ。 「は」 つねとは違う空気を感じたのだろう。源宇は居住まいを正して、礼を取った。 「兵を動かすだけが、いくさではない」 水面下での工作も、国を左右する大事である。 「御意」 「皆に招集を」 重々しく、命じる。源宇はしばらく頭を垂れていたが、やがてちらりと視線を上げて、 「……仕方ないですねえ」 いつも通りの口調。 「そのかわり、明日はきっちり休養していただきますよ。でないと、また一年ぐらい寿命が縮みますから。……なあ、逓?」 朝餉の支度を整えて房に戻ってきた近侍の青年に、話を振る。逓は食器を卓に並べつつ、無言のまま目礼した。要するに、自分が答える必要はないと考えたらしい。 源宇はひょいと肩をすくめた。あらためて牀に向き直る。 「されば、慎みまして」 再び作法通りに拝礼をして、兵部参議の官職にある男は房を辞した。 |