孤の螺旋
  by近衛 遼




ACT7

 もう、幾日になるだろう。あの男と閨をともにすることはおろか、言葉すらまともに交わさなくなってから。
 英泉が江の国より戻ってきてから、馮夷は軍議の席にもめったに顔を出さなくなった。といって、職務をないがしろにしているわけでは決してない。軍議の際には意見書を提出しているし、各地から集まってくる情報の分析や今後の予測などは、じつに綿密に行なっている。
 以前から人前に出ることの少ない男だから、三日や四日、姿を見なくても、皆はそれほど気にしないだろう。だが。
 つねにあの男の存在を間近に感じていた英泉にとっては、このひと月あまりは不可解だった。
 だいたい、なぜ自分が江の国に行くのを止めなかったのか。なぜ随身してこなかったのか。そして、なぜ帰還したあとも距離を取り続けているのか。
 わからない。また自分は、なにかを間違えてしまったのだろうか。
 夜陰の中で、英泉は身じろぎもせずに自分の息を聞き続けていた。


 桐野斎が間者として東雲の荘に潜入してから、三日目の未明。
 英泉は慌ただしく戸を叩く音で目を覚ました。
 いまごろ、何用であろうか。隣室には近侍の逓が控えている。戸口まで取り次ぎに出たのだろう。ノックの音は途切れ、そのかわりがらがらとした濁声が聞こえてきた。
「緊急の用件だ。通るぞ」
 言いながら房に入ってきたのは、源宇だった。
「お休みのところ、すみませんねえ」
「よい。何事だ」
 英泉はすばやく牀から下り、幕を開けた。逓が房の明かりを灯す。
「物見から報告がありましてね。江の国からこちらに向かっていた物資が、ぶんどられちまったようで」
 とうとう、動いたか。
 江の国主の差し金か、あるいは和の国の強硬派が手を回したか。
「わかった。皆は?」
「さっき招集をかけときました」
「大儀」
 英泉は再び幕の中に入った。夜着のままで軍議に出るわけにはいかない。手早く衣服を改めて、髪を整える。
「参る」
 短く告げて、英泉は広間に向かった。源宇もそれに続く。
「被害は荷物だけか」
「いいえ。人足も護衛の兵もやられましたよ」
 ずいぶんと派手にやってくれたものだ。
「ま、宣戦布告ってとこでしょうね」
 やれやれといった調子で、源宇。広間には砦の主だった者たちが集まっていた。すでに源杖が、何事か指示を出している。
「和の国の『草』と繋ぎを取れ。あとは江の国の『座』の者どもに……ああ、鑑公。概要は聞いていただけましたかな」
 源杖はまっすぐに英泉の前までやってきた。ひざを折って礼を取る。
「僭越ながら、とりあえずの手当として、和の国に入り込んでいる宗の間者を押さえることと、江の関係者の洗い直しを命じました。『座』の中に、宗と通じている者がおるやもしれませぬゆえ」
「大儀である。次の荷について、和の国からなにか連絡は」
「すでに新しい荷を手配済みですが……源宇」
 壮年の武人は、甥である大男をちらりと見て言った。
「なんですか、伯父上」
「そなた、急ぎ国境へ行き、荷の護衛に当たってくれ」
「はあ? この俺が荷物番ですか」
 源宇が気の抜けたような声を出した。
「またぞろ横奪されては困るだろう」
「それはそうですけどねえ」
「荷物番がいやなら、鼠退治だと思えばよい」
「ネズミ?」
 源宇が首をかしげた。源杖は低い声で真意を告げた。
「荷は囮だ。二匹目のドジョウを狙って群がってくる輩を捕縛する」
 ようやく源宇も納得したらしい。
「なるほど。じゃ、まあ、行ってきますかね」
 何人かの部下に声をかけ、源宇が広間を出ようとしたとき。
「あー、もう、たまんないわねえ。寝不足はお肌に悪いのよ。この貸しは、あとできっちりばっちり、返してもらうわよっ」
 思い切り賑やかに、水木が中に入ってきた。
「よお、姐さん。久しぶりだねえ、スッピンってのは」
 源宇がすれ違いざまにからかう。水木はキッとにらんで、
「うるさいわねッ。オトコと一緒でもないのに、寝るときまで化粧してらんないわよ」
 素顔に、かっちりとした御影の任務服。金茶色の髪はうしろで結ばれている。なんとなく懐かしいものを感じ、英泉は水木に近づいた。
「水木さん。ご苦労様です」
「あーら、英泉。……どしたのよ」
「え?」
「ここんとこ、クマができてるわよ」
 自分の目の下を指でさすりつつ、水木は言った。
「あんたも寝不足? 若いからってムリしちゃダメよ。アタシの使ってる美容液、貸したげよっか。都で評判のカリスマ・エステティシャンのおすすめ商品よ〜」
 化粧はしていなくとも、スキンケアはちゃんとしているらしい。
「いえ、私は結構です。それよりも……」
「やーっと、動き出したって?」
 にんまりと笑って、水木は英泉と源宇を見比べた。
「で、源宇。いまから江の国に殴り込み?」
「まーさか。俺はチーズを狙ってくるネズミを引っ捕まえに行くだけだぜ」
 源杖の策について、簡潔に説明する。
「ふーん。ま、がんばってね。これ、アタシからのお餞別よ〜」
 周りにも聞こえるぐらいの音をたてて、水木は源宇の頬に接吻した。
「なっ……なにしやがる!」
 突然のことに、源宇が本気で抗議した。水木はけらけらと笑いながら、
「やあねー。そんなに邪険にしなくてもいいじゃないの」
「おまえなあっ」
「こないだの賭けで、ズルしたのはだれよ。アタシを甘くみたら、タダじゃおかないわよ」
 なにやら入り組んだ事情があるらしい。源宇はむっつりとしたまま、横を向いた。
「源宇」
 見かねた源杖が咳払いをしながら、
「そろそろ準備を、な」
「……承知」
 軽く一礼して、出ていく。水木はなおもくすくすと笑いながら、それを見送った。
「如月どの」
 源杖が重々しく、和の国の「水鏡」の名を呼んだ。
「はいはい。なーに」
「合いの時ならともかく、いざ一命を賭して槐のために働かんとする者を、いたずらに揶揄するのはやめていただきたい」
「えーっ、アタシはべつに……」
 言いかけて、ちらりと横を見遣る。ちょっとマズかったかしら。そんな声が聞こえてきそうな顔だ。
「……悪かったわ」
 ぼそりと呟き、作法通りに礼をする。じつにしなやかな所作。舞踏の一場面を見ているような美しさだ。
「で、荷物を横取りしたやつらの身元はわかったの」
 仕事の顔になって、水木は訊いた。源杖はいま入っている情報を伝え、
「とりあえず、今度の荷を餌にして現場の者どもを引っ捕える。あとは『座』の中だが……」
「それよりさ、国主の周辺はどうなってんのよ」
「あの昼行灯の?」
 源杖が眉をひそめた。
「昼行灯でもねー、雨戸締め切った中なら役にたつわよ」
 たしかに、あの国主は腹に一物持っていそうだが。
「国境でひと騒ぎあったってことは、お城ん中でも動きがあってもおかしくないでしょ。そのへんも探りを入れて……」
 そのとき、脇の戸口に赤茶色の髪の男が現れた。意見を述べている水木を無視して、英泉に小さくたたんだ紙片を差し出す。
「外回りの者が江の細作を捕縛した」
 抑揚のない口調。もともと感情を表に出す男ではないが、このところさらに事務的な物言いになった。
「これは?」
 紙片を受け取る。わずかに指先が触れた。馮夷はすっと手を引き、
「密書だ」
 能面のような顔で、語を繋ぐ。
「江の国主は、よほど東雲卿を頼りにしているらしい」
 その書状は、東雲卿の江の国入りを促すものだった。英泉がそれを源杖に渡すと、
「ほう。如月どのの読みが当たりましたかな」
「あーら、タイムリーじゃないの」
 水木が、うきうきと書状を覗き込んだ。
「東雲の殿様がこれ見てどう動くか、楽しみだわねえ」
「如月どの、先程も申し上げたが……」
「はいはい。冗談はやめろってんでしょ。わかってるわよ」
 薄茶色の瞳が猫の目のようにきらりと光る。
「んじゃ、アタシもそろそろ真面目にお仕事しようかしらね〜」
 そう言って、水木は自分も東雲の荘に向かうことを告げた。