孤の螺旋 by近衛 遼 ACT13 水木と斎が東雲の城の一部を破壊して英泉を助け出し、天坐の砦に帰還したとき。 英泉は、宗の術者が断末魔に残した禁術に侵されていた。 死なばもろとも。その覚悟で結界内で破砕術を発動した英泉に対し、宗の術者はおのれの肉体を放棄して念を遺した。その怨念によって、英泉は死者に体を乗っ取られてしまったのだ。結果、英泉の中ではふたつの思念が攻防を繰り広げ、あわや「呪」に支配された宜汪のようになりかけたという。 その英泉を、馮夷は自らの結界内に取り込み、解術の祈祷を行なった。護摩壇に火を入れ、香を焚き、連珠を構えて口呪を唱える。食物はおろか一滴の水も口にせず、馮夷はその祈祷を一昼夜続けた。 「だいぶ、しぶとい『呪』でしてね」 牀の横で、源宇が説明した。 あのあと、英泉は一時的に気を失い、自室に運ばれたのだ。水木たちはすでに帰国の途に着いたらしい。 「馮夷だけでは無理かもしれないということで、天央の砦に遣いを送ったんですが」 天央の砦には、解術にかけては槐の国で右に出る者はいないと言われるほどの術者がいる。名を庸銘といい、天央の長の守役でもあった。 「あいにく、庸銘どのは急務で和の国に赴いているとかで……。助っ人が期待できないとすると、一か八かに賭けるしかなかったんですよ」 馮夷は護摩壇の周囲を厳重に封印した。祈祷所内に水木がさらに結界を張る。万一、英泉を喰らった念が暴走したときのために、斎と源宇が臨戦体制をとり、砦の者たちは源杖の指揮の下、一旦城壁の外に避難した。そして。 馮夷は魂寄せの禁術を使った。宗の術者の念が出口を求めてうごめく。英泉の体は弾かれたように宙に浮いた。 表情が苦しげに歪み、大量の血が口から溢れた。護摩壇が赤く染まる。その血塊のひとつひとつが、生き物のように馮夷に迫った。 『裂!』 水木が左手を大きく横一文字に振り切った。片手だけの強烈な攻撃結界が、護摩壇に向けて発せられる。黄金色の閃光が封印結界を突き破った。 護摩壇が崩れる。火柱がいくつも立って、炎が天井を這う。その中で、英泉の体は糸が切れたかのようにどさりと落ちた。 渦を巻いていた炎が水木の防御結界と水術によって収まったあと、祈祷所の壁も天井も真っ黒になっていた。 「それで……」 話を聞き終え、英泉は口を開いた。 「馮夷はどうした」 長時間に及ぶ祈祷と、おのが命を引き換えにするほどの禁術。無傷でいられたとはとても思えない。 「無事ですよ」 拍子抜けするほどあっさりと、源宇は言った。 「まことか」 「ほんとですって。やつがそう簡単にくたばるわけないでしょうが。ただ……」 「ただ?」 悪い想像が次々と浮かぶ。手足を失っているのではないか。視力は。聴力は。あるいは神経系に障害が残っているのかも……。 「やっときのう、五分粥になったとこですからねえ。公務に復帰するのは、しばらく先になるでしょうね」 源宇の説明によれば、どうやら馮夷に四肢の損傷や麻痺などはないらしい。 「もっと早くに報告すればよかったんですが、やつに口止めされてまして……。今回の件が片付くまで、余計なことは言うなって」 なにが「余計なこと」だ。英泉は源宇を見据えた。 「この砦の長は、私だ」 いつになく強い口調で、言う。 「砦内のことは、すべて知っておかねばならぬ」 「そりゃまあ、そうですが……」 反論しかけて、言を止める。しばしの沈黙ののち。 「御意」 源宇は公の場のように、ひざを折った。 「こたびの不手際の責は、いかようにも」 英泉はわずかに眉を寄せた。 「……もうよい。今後はよくよく、心せよ」 「は」 「下がれ」 横を向いて、命じる。源宇は頭を垂れたまま、房を辞した。 東雲の城から帰還して、まもなく十日。 あの男は傷病者が収容されている医療棟ではなく、かつて宜汪が薬の調合や実験などに使っていた庵に籠もっているという。そこはいまでは、予備の薬草や飼料や、農機具などを置く倉庫がわりに使われていた。 医療棟であれば、英泉が見回りに来る可能性がある。あの男はそう考えたのかもしれない。 源宇には馮夷を医療棟に移すように命じておいたが、はたしてあの男がそれをすんなり受け入れたかどうか。 『無用だ』 あの男なら、ひと言で切り捨てたかもしれない。 その日の夕刻。 英泉はところどころ焼け焦げた祈祷所に足を運んだ。建物としての機能はまだ備えていたが、護摩壇は崩れ、壁や天井はすすで真っ黒になっている。 近々、修復工事をせねばなるまいな。そんなことを考えながら、倒れた護摩壇を見下ろした。ここで、あの男は魂寄せの術を……。 ふっ、と、空気が動いた。 だれかが祈祷所の扉を開けたのだ。逓には、だれも通すなと命じておいたはずなのに。 防御の態勢をとり、戸口を窺う。 「え……」 目を向けた、その先にあったのは。 煉瓦色の髪とふた色の瞳。土気色の無機的な顔。ゆらりと上体を傾けて、あの男が中に入ってきた。一歩、また一歩と近づいてくる。 『馮夷』 また、声が出なかった。唇がむなしい努力を続ける。 「英泉」 ほとんど口を動かさずに、馮夷は言った。地を這うような低音。ほぼ半月ぶりに聞く声だった。 「なにをしている」 「馮夷……」 今度は、声が出た。空気が漏れるような、かすれた声ではあったが。 「もう、よいのか」 昨日やっと、五分粥を食せるようになったと聞いた。まだ快癒にはほど遠いはずだが。 「すまなかった。私のために、おまえは……」 「笑止」 馮夷は口の端を歪めた。 笑止? どういうことだ、それは。英泉は眉をひそめた。 「おまえのためではない」 鋭利な刃物のような言葉が、馮夷の口から発せられた。 「しかし……おまえは私を助けようと……」 「助けたわけではない」 さらに否定の言葉を重ねる。 「あいかわらず、情けないことよ」 英泉の喉元に、長く骨張った指が食い込んだ。白濁した右眼と、闇を宿した左眼が近づく。 「死して、おのが業から逃れようなどと」 許さぬ。 強烈な意志が英泉を貫いた。 息もろともに吸い尽くすような口付け。ふたりはそのまま、焼け焦げた護摩壇の横に倒れ込んだ。 |