西日 by近衛 遼 ACT3 水木は語を繋いだ。 「宜汪があんなことになったのに、まさかあんたが砦を任されるなんてねえ。九代目なんか、てっきり『三柱』のじいさんたちが出張ってくると思って、天睛に密使を送ったのよ。アテが外れて、だいぶ慌ててたみたい」 国家機密に類することを、いとも簡単に口にする。英泉が目を丸くして見返すと、 「あ、これはオフレコね〜。でないと、アタシの首が飛んじゃうから」 だったら言わなければいいと思うのだが、これもある種の駆け引きなのだろう。かつて水木が宜汪と交わしていた会話の数々を思い出しながら、英泉はそう推察した。 「それにしても、ほーんと、安心したわよ。サイアクの場合、ここの連中があんたをシカトしてるかもしれないって思ってたけど」 くすりと笑って、続ける。 「来てみりゃ、みんな、ぜーんぜん変わってないじゃない。年中お祭り状態っていうか、無礼講っていうか。ま、約一名、年中葬式みたいな顔してるやつもいるけど、それも前とおんなじよね」 馮夷のことを言っているのだろう。たしかに、あの男は宴席にあっても羽目を外さない。 「ねえ、英泉」 水木はそっと英泉の肩に手を回した。 「『ひとり』になってないわよね?」 「水木さん……」 「あんたって、自分からカーテンを引いちゃうようなとこあるからねえ。そのまんまで十分かわいいのに、もったいない」 冗談めかした言葉。でも、心からの言葉。昔と同じように、すんなりと耳に入ってくる。 そういえば、出会ってまもないころ、同じようなことを言われた。 『上だろーが下だろーが、関係ないでしょ』 当時、ほかの者たちとの距離を感じていた英泉に、水木はあっさりと言い切った。 『こっちがオープンにしてりゃ、相手だって腹を割ってくる。身分がどうのこうの言ってるヤツは、たいしたモンじゃないのよ』 自分が王族だから、皆が遠慮して遠巻きにしているのだろう。そう思い込んでいた英泉にとって、水木の言葉は新鮮だった。 『あんたは、そのまんまが一番だよん。なんにもモンダイないって』 英泉の頭をぐりぐりと撫でて、水木は笑った。光がこぼれるような明るい笑顔で。 あのときと同じ、いや、さらにあでやかな笑みが目の前にあった。ふとあることを思い出して、下を向く。 「あーら、残念。もうちょっとだったのに」 いたずらっぽくそう言って、水木は手を放した。 「じゃ、アタシも着替えてくるわね〜」 ぴらぴらと手を振って、出ていく。そのすらりとした後ろ姿を見ながら、英泉は自分の心が軽くなっていくのを感じた。 翌日、水木たちが返書を持って帰国の途についたあと。英泉は近侍の逓(てい)を伴って高殿に上がった。 この男はもとは籐司の侍従で、十年前、先代の槐王、司汪のたっての願いで英泉の近侍となった。英泉にとっては馮夷や源宇と同じく、天坐に来て以来の側近である。 目の前には、前日に見たのと同じ風景が広がっていた。やや時間が早いためか、連山はまだ日の光の中にあった。濃い緑が染み入るように美しい。 いまごろ、どのあたりだろうか。寄り道をしていなければ(水木は道草の常習犯であるらしい)、もう国境を越えているはずだが。 トン、トン、トン……。昨日と同じように、階段を上ってくる足音が聞こえた。 「英泉」 抑揚のない低音の声。馮夷だった。 逓は脇に控えて一礼した。王城で働いていたからであろうか。この男は、身分や位階の上下をことさらに重んじている。もっとも、源宇をはじめとする天坐の者たちにまで、それを強いることはなかったが。 「天央より文が届いた」 「叔父上からか?」 「明日、こちらに来るらしい。宴の用意をしておけ、と」 「いかにも、あのかたらしい」 「むろん、馬鹿騒ぎをするためではなかろうが」 「……わかっている」 天央の砦の長は、先々代の槐王の庶子だった。名を翡晶(ひしょう)といい、華やかなことが大好きで、諸国の芸人を砦に集めてはその技を競わせている。近隣諸国からは遊芸好きの「うつけの若」と陰口を叩かれているが、それだけの人物ではないことは英泉も知っていた。 きのうは水木。そして、あしたは翡晶。 天坐の今後を見極めに。 「逓」 「は」 「厨所に十二分の用意をするように、と。それから、香家に依頼して手隙の者を手配してもらえ」 香家は槐の「六家」と称される名家のひとつで、伎芸に秀でた家柄である。 「御意」 逓がすみやかにその場を辞した。あとには、英泉と馮夷。 西日が高殿に差し込む。馮夷の髪が夕日を受けて、さらに赤く見えた。 「……」 名を呼ぼうとしたとき。 「警備を強化するよう、言うてくる」 くるりと踵を返し、馮夷は階段を下りていった。足音が遠ざかる。規則正しいその音がだんだん小さくなり、やがて消えた。 『“ひとり”になってないわよね?』 ふいに、昨日の水木の言葉が脳裏に浮かんだ。 ひとりではない。ひとりではない。だが……。 この言いようのない、虚ろな感情はなんだろう。 沈みゆく日の名残りを背に、英泉はただその場に立ち続けた。 (了) |